パラレルですよ〜 大丈夫な方はスクロール




































捕らえて囲って、縛り付け、この部屋から出られないようにしたのは、確かに自分なのにと自嘲する。
だって気付いてしまったから。
気付いてしまった今、彼をここから連れ出したい。
格子に囲まれた、小さな庭しか見えない狭い空間。
この閉ざされた世界限定の関係だなんて、寂しすぎる。
閉ざされた世界でたったふたり。
それずっと望んで来たのは確かなのに、どうしてか今は虚しさが勝った。
どうして、と考えて、再び自嘲した。
そんなもの、理由は判りきっているのにと。
雪の日に捕らえた大切な存在。
初めて彼を腕に抱いた時の歓喜。
そして、捕らえられる事を望んでくれた時の幸福感。
彼が自分を望んでくれた瞬間から、虜囚から恋人に変化した関係。
だが、いつでも現実はつきまとう。
突きつけるように、不意に。
彼はこの空間、明らかに監禁を目的とした隔離された部屋から、一歩も出ようとはしないのだ。
だからか自分は不安になる。
この部屋を出た瞬間、彼を繋ぎ留めるものは何も無くなるのだから。

次を望むのは贅沢なのだろうか。
閉ざされていない、他者をも許容する外界で、お互いの存在しか見えない状況。
それを望むのは、いけない事なのだろうかと考えてしまう。

人間は本当に欲深く、罪深い。
一つが満たされると、すぐに次を望んでしまうのだから



桜ドロップス。





例年よりも春が遅いこの土地にも、やっと穏やかな空気が満ち始めて来たこの季節。
暦上は春に分類される今の時期、去年よりも晴れ間の少ない曇天の中、未だ蕾の桜に期待が否応無しに膨らんでしまい、庭先を眺めて微笑む。
桜の季節がやって来た。
春夏秋冬と、四季の巡りを味わうことが出来る列島に住みながら、北に位置するこの土地は、春の訪れが遅く、夏はあっという間に過ぎてしまうのが少し寂しい。
それでも長期の休みに入る今週、知らず頬が緩んでしまうのが否めず、イルカは枝垂れ桜が垣根越しに枝を伸ばす坪庭を眺めて目を眇めた。
小さな蕾は未だ固そうで、綻びの片鱗も見せはしないが、蕾がある時点で、咲くことは確定され、それらが一斉に咲き始めた時を想像し、思わずうっとりとしてしまう。
ここの坪庭は計算を施された、外界から遮断されながらも、一己の世界として確立した空間なのだ。
縁側に座って、少し盛り上がった垣根の根本を見れば、先週は殆ど咲いて居なかった福寿草の鮮やかで柔らかな黄みが、盛りの最後を見せていた。
蝋にも似た照りを持つ、黄色い花弁。
昔は目にも留めなかった、冬と春の交代期に咲く花。
この土地には梅や桃は縁遠く、春は一貫して桜前線が主役となるのだ。
桜の前に咲く花が、山々にはあまり存在せず、桜と同時期に山桃の花が濃いピンクの彩りをほんの少し見せる程度。だからか、地面に根付く花に目が行ってしまう。
白や紫のクロッカスも、この庭を彩るのを目にしてから、春の花なのだと理解した。
それ位に四季の花々には疎かったイルカだった筈なのに。
「桜が咲いたら、次は牡丹かな?そして紫陽花と…」
部屋の外に出なくとも、四季を味わえる造りになった庭を眺め、イルカは季節を彩る花の存在を考える。
時期に合わせて配置も巧妙に植えられたそれらは、きっと自分を楽しませてくれるだろうと、想像するだけで楽しいのだ。

「イルカ先生は、本当にこの庭が好きなんですね」

妬けますね、という言葉と共に、唐突に、だが優しく背後から抱き締められるのにも慣れたと、イルカは思う。
反射的に吐息を吐いて、寄りかかってしまう位には。
抱き締める男の台詞に間違いは無く、確かにイルカはこの坪庭に異様な程
惹かれているのを自覚している。
初めて雪に埋もれた庭を目にした時から。
この閉ざされた部屋に囲われようと、決意した時から。
イルカの季節の移ろいは、ここが唯一となったのだ。

「凄いですよね、この庭…四季がここだけで味わえてしまうんですから」
「ん、ここしか見せないつもりで作ったんでしょうから、ね」
「これも愛故、ですか」
「偏った愛、ですけどね」

イルカを抱き締めながら、カカシは目を眇めて遠くを見つめる。
その視界に映っているのは、眼前のこの庭ではなく、もしかしたら遠い日の景色なのかもしれなかった。
自分を抱き締めながらも見ないカカシに寂しさを覚え、イルカはそっと目を伏せてしまう。
カカシの些細な仕草に、寂しさを感じてしまう自分は、随分とカカシに傾倒しているのだと思い知らされた気がして。
それが少し悔しくて、ほんの少しだけ甘える仕草を見せてしまう。
寄りかかったカカシの肩口に頭を預け、軽く擦り寄るように懐く。
それだけで十分だった。
十分雄弁な甘えだった。
少なくともカカシにとっては。
肩口に懐くイルカの体温に、思わず目尻が下がり、口元が緩んでしまうのが否めない。

「アナタ以外、見えてないよ?」

甘く困ったように囁くカカシの声に、存在を知らしめる為の甘えた行為だと悟られた事を知り、イルカは僅かに頬を赤らめてわざとそっぽを向く。
拗ねた口調で詰る言葉も伴って。

「嘘ばっかり」

するりと出てしまった言葉に、イルカ自身、内心驚く。
カカシがイルカ以外を見ていないのは、自分が一番知っているのに。
否、そう思いたいだけなのかもしれないと、不意にイルカは思った。
嘘と詰った自分の言葉。
何の衒いも無く滑るように零れたそれが、自分の本音であり、不安なのだと、不意に突きつけられるように理解した。

「嘘なんて酷い。だってここにはオレとイルカ先生しか居ないじゃない」

カカシは嘘はついて居ないし、彼の言うことは紛れも無く事実。
なのに胸の奥に蟠る暗雲のような感情は、ふつふつと湧き上がって来る。

「それでも…ッ」

咄嗟にぎゅっと、イルカは手に触れたカカシのシャツを握り締め、しがみつく。
今は確かに二人きり。
だけど、この部屋を一歩でも出てしまったら、二人っきりでは無くなってしまうのだ。
お互いを取り巻く様々な環境が、互い以外を強要する。
世界は二人で回っている訳ではないのだ。
イルカはそれを脳で理解しながら、感情で押し殺し見ない振りをして来たのだろう。
愚かしいとは思うが、それが現実。
だからイルカは拘る。
本当の意味で二人しか存在しない、閉ざされたこの部屋に。








シャツを握るイルカの手。
その幼い仕草に、イルカがこの部屋を出ない理由が見えた気がした。

「イルカ先生は…オレと二人っきりじゃないと嫌?」

確認するように尋ねる声が、知らず上擦ってしまう。
そっと布地を握り締める手の上から掌を重ね、宥めるようにさすれば、ゆっくりと弛緩するかのように、強ばったイルカの手から力が抜けるのが嬉しかった。

「ね、嫌?」
「い、やです…カカシさんといっしょじゃないのは…嫌」

こくん、と小さく頷く姿は酷く幼く、そして頼りなげで、カカシは抱き締めた腕に更に力を込めて、自分の方へと引き寄せた。
寄り掛かるように自分の胸にもたせかけ、優しく頬を撫でれば、イルカの体からも力が抜け、密着した服越しの体温がカカシへと伝わった。

「この部屋、好き?」
「はい」

問いかけに戸惑いも無く、間を置かずに返ってきた返答。
正直、凄く嬉しい。
だが、今のカカシにとっては、ほんの少し複雑でもあるのだ。

「どうして…?」
「だって…」

背後から覗き込むようにイルカを伺えば、言い淀む口籠もり、視線が僅かに逸らされる。
自分の答えを口にして良いのか戸惑っているらしい仕草に、カカシは笑ってイルカの頬にキスを落とし、あやすように言葉を促す。

「ん?」

僅かに首を傾げて促せば、イルカが腕の中で僅かに身じろぎ体勢を変え、伏せていた目をカカシへと向る。
濡れたような印象を持つ、黒い瞳が自分の姿を映す様子に、カカシは陶酔感すら覚える。
イルカが自分だけを見つめる事実。
それが嬉しい。
カカシを映す黒い目を揺らし、またイルカは睫のを伏せて瞳を隠してしまう。
そして躊躇いがちに口にするのだ。
そっと、吐息のような声音で。

「ここなら…この部屋なら、誰かにあなたを盗られる心配が無いから…」

言葉と共に、シャツに刻まれる皺が増え、その言葉に込められたイルカの心情が窺い知れる。
小さな声で告げる、激情。
カカシからの一方的な偏愛で始まった関係にも関わらず、イルカの心がここまで自分に傾いてくれた奇跡に、カカシは内心驚く。
言葉では何度か聞いてはいた。
閉じこめられても構わないと、この部屋から解放されなくとも、それは本望だと。
共に居てくれるのならば、外の世界は要らないとまで言われて尚、イルカの激情を推し量る事は出来なかったのだ。
腕の中で胸に擦り寄る愛しい存在。
閉じこめて、外界から遮断して、自分だけが愛でられるようにと、凄まじく自分本位で始まったのに、それを許容した上で受け止め、そして返してくれた稀有な存在。
愛しい愛しい、可愛い恋人。
小さな音で紡がれたイルカの言葉は、違わずカカシへと届き、その眦を下げさせる。
本当にこの人は、自分を歓喜させる天才だと思いながら、カカシは抱き込んだイルカの体を強く引き寄せ、覆い被さるように体重をかけた。

「カカシさん…?」

畳にそっと押し倒して上から顔を覗き込めば、きょとんとした瞳と視線がぶつかる。
濡れた黒色を湛える、夜の湖水。
視線一つでカカシを獣にする存在は、この夜でイルカ只一人だろう。
この静かな瞳が熱に潤む様を知っている。
それは確かな優越感で、自分の下で艶やかな姿を見せるイルカを思い出し、カカシは自分の下肢に、じんわりと熱が隠り始めたのを感じた。

「そんな可愛いコト言ったら、悪い人に襲われちゃうよ?」

悪戯っぽく囁いた内容が洒落にならないのを承知の上で、カカシはイルカに淫蕩な笑みを見せ見下ろす。
畳や額に散った黒髪を、指先で思わせ振りに撫で上げれば、イルカの目が細く眇められ、まるで猫を愛撫しているかのよう。
こめかみにキスを落としてイルカの様子を伺えば、ほんの少し困惑したような表情が見えた。

「カカシさんは…」
「ん?」
「悪い人なんですか?」

何を今更とカカシは思う。
自分がイルカにした仕打ちを忘れた訳では無いであろうに。
拉致、監禁、拘束、挙げ句の果てに強姦した上で調教じみた行為まで強要したのだから。
今佇むこの部屋に繋ぎ、閉じこめて、カカシ以外に逢わせなかった冬休みの出来事。それはさして遠い昔の事では無いのに。
だからカカシは困ったように笑うしか無かった。
最終的にイルカが絆されてくれなかったならば、自分は実刑を免れない犯罪者となっていたのだから。

「うん、確実にオレは悪い人でしょ〜。だってイルカ先生を閉じ込めて、あんなコトしちゃったんですもん」

そっとイルカの足首を捕まえ、くるりと指を絡めてさする。
そこに足枷があった事実を思い出させるように。

「…んっ」

足首をなぞられ、ヒクンと体を戦慄かせながらも、イルカは抵抗はおろか、足を掴むカカシの手を拒む様子も無い。
解放した当初、うっすらと赤く輪になっていた痕は、今は綺麗に無くなってしまい、それが寂しくて薄い皮膚が張る踝に、カカシは唇を押し付け花弁を散らす。
ほんのりと色づく花びらに、安堵の吐息を吐けば、イルカが自分に向かって両手を差し伸べているのが見えた。
その両腕に誘われ、囲われ、収まる。
当たり前のように背中に回された腕の感触が、泣きたい程に幸せな気分を与えてくれた。

「…悪い人でも良いです」

ぽつりとイルカが呟く。
カカシを抱き締め、丁度耳朶に囁くように、ごくごく小さな声音で。

「……カカシさんなら、悪い人でも構いません」

囁いてイルカはカカシの首筋に頬を寄せ、擦り寄る。
強く抱き締める腕の力が、力強くて凄く嬉しい。
求められている気がして。
カカシは密着する体温に浸りそうになる自分を押し留め、イルカの言葉に耳を傾ける。
低く掠れがかった声は、酷く淫靡な雰囲気を伴ってカカシを翻弄するのだ。

「だから…あなたは俺を、当たり前のように、襲って良いんです」

うっとりとイルカの声に耳を傾けていれば、思いがけず言葉で貰ってしまったお許しの言葉に、カカシは目を瞠りつつも確認の意味を込めてイルカを見つめる。

「先生?」

密着した体が離れるのが少し名残惜しかったが、体を浮かせて再度上からイルカを見下ろせば、潤む黒い目に情欲の色が浮いているのが判った。
嬉しいと素直に思う。
イルカはカカシに、悪い人でも構わないと言った。
襲っても構わないと言った。
ならばここから先、獣になってもイルカは許してくれるだろう。
それ所か、イルカも共に獣と化してくれるのだろうと期待できる。

「じゃあ…悪い人になって良い…?」

潤む眦にキスをして、悪戯っぽく告げれば、イルカの腕が首裏に絡み、引き寄せられた。

「良いですよ…俺限定で、なら」

そう言って微笑む顔に、一瞬見惚れてしまう。
淫らで可愛くて清楚。
相反する言葉が似合う不思議な恋人にキスを贈り、カカシは『悪い人』になる手始めに、イルカの着衣の裾から手を差し込むのだった。








「あ…っ、障子、開きっ…ぱなし…」

坪庭に面した縁側のすぐ横、畳の上で大きく足を開かされながらも、イルカは閉じていない障子の存在を訴える。
例え声が外まで零れる心配が無くとも、庭から誰かが覗く事が出来ない事を知っていても、外界との繋がりを匂わせる空や垣根の存在が、イルカの感覚に、行為に集中できない影を落とす。
薄曇りとは言え、春の日差しが降り注ぐ中で昼間っから、淫蕩な行為に耽る後ろめたさも手伝って、せめて障子は閉めて欲しいと思うのだ。

「大丈夫でしょ、外からは見えないし…きっと声も聞こえないよ」
「でも…うぁッ!」

言い募ろうとしたタイミングで、開かれた股座にカカシの顔が伏せられ、生温かい感触が下肢を覆う。
途端、蕩けそうになる理性を叱咤し、イルカ自分の股座で上下するカカシの髪に指を絡め、引っ張る。

「痛ったたた…!」

勢いで何本か綺麗な銀髪が抜け、指に絡まったが、イルカはそれよりも開け放たれた障子が気になってしょうがないのだ。

「障子」

端的に要求を告げても、カカシは動かない。
それ所か、尚もイルカの太腿を拘束し、更に大きく広げようとする。

「落ち着かない…ッあ、ん…」

深く喉奥まで咥え込まれ、吸い上げられれば、零れるのは批難の言葉ではなく嬌声。

「ひゃ、や、ダメ…っ、止めて、下さ…」

イルカの要求を知っていながら無視を決めたカカシに、内心少し怒りが湧く。
だからと言う訳でも無いのだが、口淫に夢中になっているカカシの隙を突き、拘束された足を片方だけ大きく振り上げた。
イルカの位置からは障子に手が届かない。
ならば…。

「イルカせんせ、行儀悪い…でも大胆」

閉めるまでは至らなかったが、それでもイルカの視界からは外界は遮断される。

手が届かない距離。
だが足は届くギリギリの範囲。

だからイルカは足を伸ばして、その爪先で障子を引いた。
カカシに言われるまでもなく、行儀悪いという自覚はある。だが、要求しても叶えてくれなかったカカシが悪いとイルカは淫靡に濡れた目でカカシを睨め付ける。

「そんな目で睨んでも可愛いだけだよ。それに、あんなに大きく足開いちゃって、アナタの可愛い蕾も丸見えでした」

あれだけ足が開くなら大丈夫だよね、そう言って、カカシはイルカの膝裏を抱えて今までよりも大きく開く事を要求するのだ。
そしてその要求を叶えてしまう自分の体の柔軟性に、イルカは嘆息するしかなかった。








「カカシさん…?」

目覚めた側に、在るはずの体温が存在せず、イルカは目を擦りながら身を起こす。
近くには…少なくとも部屋の中には、イルカ以外の気配は存在せず、真っ暗な空間にただ一人、妙に心細いと思ってしまう。
肌寒く感じるのは、春とは言え夜半だからだろう。
情事の後、気を失うように眠ってしまったらしく、知らぬ間に体は綺麗に拭われていた。

「…ぅ、胎(なか)も…」

常ならば、起き上がっただけで自分の内から溢れるカカシの体液の存在が無い事に、イルカは羞恥を覚え、暗闇で一人赤面する。
自分の知らぬ間に、身繕いされるのはこれで何度目だろうか。
かと言って意識がある時にされても、それはもっと恥ずかしいのだが。

「自分でやるって言ってるのに」

熱くなった頬をさすりながらごちてみても、独り言にしかならない寂しさが訪れるだけで、イルカはこの部屋に寝泊まりする時に使っている浴衣を取り出し、軽く羽織る。
痛む腰を宥めつつ、膝で畳の上を膝行りながら縁側へと進む。
そしてそっと障子を開ければ、案の定、夜の世界が訪れていた。
僅かに垣間見える空には、狭く切り取られた星空が覗き、吐く息が僅かに白みを見せるのに、夜半の冷え具合を思い知る。

「さむ…」

羽織っただけの浴衣に袖を通し、袷の前を重ねて低い気温に耐える。
それでも、熱を吐き出し続けた体には、僅かに鳥肌が浮く位の寒さは、思考がはっきりできて気持ち良い。

「…腹、減ったかも」

呟けば、漂う匂いが鼻孔を擽る。
何かは判らないが、酷く美味しそうな匂いが、母屋の方から漂って来るのだ。
おそらくカカシが何かを作っているのだろう。
この広い家の中、家政婦に任せるのは母屋の掃除のみらしく、カカシはあの年齢の男にしては珍しく、自炊というものをしているらしい。
しかもそれは相当な腕前で、イルカもここに訪れる度に、相伴に預かっているのだ。
途端、腹の虫がはばかり無く大きな鳴き声を上げ、イルカは暫し考える。
匂いのせいで、空腹が限界にまで達してしまったのだ。
いつもならばカカシがこの部屋に食事を運んで来るまで待つのだが、今日はその待つ時間すらもどかしい。
何よりも、今、ここにカカシが存在しない事実が、酷く寂しいと思ってしまった。
母屋までは渡り廊下一本分。
距離にして数メートル。
カカシが帰って来るのを待つよりも、自分が行った方が早いような気がして、イルカは縁側から立ち上がる。
渡り廊下の板の感触を足裏に感じ、体温がそこから奪われて行くような感覚がある。
それでも明かりが灯る母屋にカカシのシルエットを見て、知らず足取りが速くなった。
外に零れる淡い明かりと、漂う食欲をそそる香りに誘われて、イルカは母屋へと歩を進める。
その一歩が初めて踏み出す外界への一歩だと、全く自覚が無いままに。








帯を手に、だけど締めるのはなんとなく面倒で、イルカは袷を手で押さえ、裾を粗雑な足取りで翻しながら母屋へと辿り着く。
一歩近づく毎に、漂う遅い夕餉の匂いは濃厚になり、伴って腹の虫が煩く鳴く。
そんな自分の腹具合に苦笑しながら、イルカは母屋の扉をガラリと無造作に開け放った。

「イ、イルカせんせッ!?」

躊躇いなく開けた扉の向こうから、上擦ったカカシの声に出迎えられ、イルカは何かしただろうかと首を傾げる。

「はい?」
「アナタ、そんな格好で…!」

自分の格好がどうかしたのか。
イルカは袷を適当に手で押さえた状態の侭、自分の姿を振り返る。
別に全裸でもないし、帯はしていないが、一応浴衣は着ているのだ。
流石に髪は整える気も無く、起き抜けの乱れた状態で放置されているが、別段カカシが慌てるような身なりでは無いとイルカは思う。

「あ〜、とりあえず、帯しましょ、帯!」

焦った様子で駆け寄るカカシに驚きながらも、イルカは素直に手に持っていた帯をカカシへと差し出し、当然カカシが浴衣を整えてくれるだろうという前提の元に、押さえていた袷から手を離した。
途端、ハラリとはだけた浴衣の隙間から、カカシの眼前に晒されたのは、情事の痕の色を残したイルカの生肌。
当然、下肢は下着すら身につけておらず、項垂れた性器が下がっているのが丸見えだった。

「し…下着は!?」
「へ? どうせまた脱ぐんだし、良いかなと思って…」
「良くありませんッ!」

いつものカカシなら喜ぶであろうイルカの姿。
それを否定され、イルカはまたもや首を傾げる。
やはり自分はあの部屋を出ない方が良かったのだろうかと後悔しながらも、カカシの様子を伺えば、イルカの浴衣を整える為に、袷を両手で軽く持ち上げた時だった。

「…カカシ、ツマミ、まだか?」

聞いた事のある、だが、本来ならこんな場所で耳にする筈の無い声を聞き、イルは思わず硬直してしまう。

「煩いよアスマ。そこの台に乗っかってるの持ってって良いから、今ちょっと忙しいの!」

後ろを振り返らず、カカシは第三者へと返答する。
その間も浴衣を着付ける手は止まらず、まるでイルカに抱きつくようにして帯を回し、長さの具合を図っていた。

「カ…カシさん…、あの…?」
「イルカ先生、後ろ向いて」

言われて反射的に後ろを向いてしまうが、イルカは予想もしなかった第三者の存在に軽く混乱する。
渡り廊下から直接入れる母屋の台所。
イルカが入ってきた扉とは真逆に位置する…恐らく居間に続く扉あたりから聞こえる声に、イルカは動揺を隠せない。
なによりも、他に人間が居るとは思わなかったのだから。
そしてそれが、自分の知り合いなどと、考えもしなかった。

「あの…」
「おう、海野。オレの事は気にすんな」

鷹揚な口調も、イルカにとってはよく知ったもので、チラリと視界の端に過ぎるのは、タバコの煙と巨体。

「…アスマ先生?」

ぽつりイルカが第三者の名を呟けば、カカシに結ばれていた帯がギュっと強く締められる。苦しい程に。

「っ!」
「何?イルカ先生…髭と知り合い?」

余りの締め付け具合に批難の呻きを上げれば、胡乱気なカカシの視線がぶち当たる。
イルカとしても疚しい部分など一切存在しない相手。だから事実をすんなりとカカシに告げる。

「以前何度かお世話に…俺もですけど、生徒も…あの、職場から一番近い医院なんで」

猿飛医院。時間外でも事前連絡さえすればほぼ百%受け付けてくれる地元医院。
小学校勤務という環境からか、イルカはよくそこの医院の世話になっていた。
生徒が怪我をしたと言っては運び、自分が怪我をしたと言っては運ばれて。
叔父と甥という関係の二人の医師が常駐する医院なのだが、イルカは何故か三代目と呼ばれる医師に気に入られ、去年あたりは頻繁に顔を出していたのだ。
故にもう一人の医師──アスマとも面識は当然有る。

「ウチのジジイが最近お前さんが来ないとぼやいてたが…まさかコイツに引っ掛かったとは」
「え…っと…」
「ま、その内、顔を出してやってくれや。お前さんはジジイのお気に入りだから」
「お気に入りって…将棋のお相手をする位ですけどね。近い内に寄らせて頂きますね」

常と違う場所で会ったのにも関わらず、アスマの変わらぬ口調に吊られ、イルカもここがカカシの自宅だという事を一瞬忘れて受け答えをする。
そしてイルカとアスマの二人の間に挟まれて居て、尚かつ家主だというのに疎外感を味わったカカシが、唐突にイルカに噛み付いた。

「何?イルカ先生、三代目のジジイとも知り合いなの!?」
「カ…カカシさん?」

カカシの言い方にも驚いたが、その勢いにも目を丸くし、イルカは咄嗟に答える事が出来ずにたじろぐ。
そんなイルカをどう思ったのか、カカシは更に畳み掛けるようにとんでもない事を言った。

「まさか、あのエロジジイに無体な事なんか、されて無いでしょうねッ!?」
「な…!?」

一瞬、何を言われたのか理解出来なかった。だが、カカシはそんなイルカをよそに、勝手にどんどん想像を膨らませ、それは行き着く所まで行ってしまったらしく、イルカの方を掴み、揺さぶりながら馬鹿な事を言うのだ。

「この色っぽい鎖骨、ジジイの前で剥き出しにしたんですか!?可愛い乳首丸出しににして、聴診器でいたぶられたりしたんで…」

瞬間、カカシの目の裏に火花が散った。同時に脳天に強烈な鈍痛も。
そしてイルカの怒号。

「いい加減にしなさい!そんな阿呆な事するのは、アンタだけですッ!!」

カカシの脳天に落とした拳をそのままに、イルカは怒りのままに怒鳴りつける。

「ほ〜。海野はカカシにそんな事されたのか…」

感心したような響きを持ったアスマの台詞に、イルカは自分の言葉を反芻して真っ赤になる。

「な…ッ!? ち、違いますッ!!」
「ま、オレは人の色事には口出さねぇし、人の好みも嗜好もそれぞれってな」
「や、だから…」

渾身のイルカの否定はあっさりと無視さてしまう。

「それよりもカカシ、向こうにコレ持って行くぞ」

コンロ脇の台に乗せられていた料理を取り上げ、アスマは向こうの部屋へと消える。そして再度現れて、勝手に食器棚を漁って、大降りのグラスを三つ取り出し、同様に運んで行った。
ぼんやりとその様子を眺めていれば、カカシが焦ったようにイルカを伺う。
当初の目的を思い出して。

「あ、イルカ先生も腹減ったでしょ? 部屋に持って行った方が良いですかね?」

カカシの伺いに返事をする間も無く、別の声が割り込む。

「海野、お前も付き合えよ」

ひょいっと顔だけ出したアスマに、酒を飲む仕草されては、部屋に引き返す事も出来なくなる。

「何でアスマ先生が…」
「紅が友達と飲みに行っちゃったらしくてね…飯、たかりに来てるんですよ」
「ああ、なるほど」

紅というのは、アスマの婚約者の名前で、現在同棲中の相手だったりする。
もっとも、同棲期間は数年越しで、いっそ結婚した方が…と周りが余計なお世話を思ってしまう、不思議な関係なのだが。

「イルカ先生、嫌だった?」
「え?」
「こんな風に第三者が介入するの、嫌じゃない?」
「微妙ですね…なまじっか知り合いなだけに」
「そう、ですよね…」
「でも、嫌な気分では無いです。ビックリはしましたけど」
「本当?無理してない?」
「はい」

朗らかで簡潔な返事に、カカシはそっと胸をなで下ろす。
そして、イルカがここに居る事を改めて不思議に思った。
だってイルカは、頑ななまでにあの隔離部屋から出ようとしなかったのに。

「ところで先生、今回に限ってどうしてあの部屋から出ようと思ったの?」

問いかければ、一瞬イルカは複雑な表情を顔に浮かべ、照れたように鼻傷を指先で軽く掻きながら答えてくれた。
至極単純な答えを。

「…腹、減ってたんで」

実際はカカシが居らず寂しかったからという要因もあるのだが、あえてイルカは語らなかった。
そんな事を知らないカカシは、軽く打ち拉がれてしまう。
初めの一歩が、色気より食い気。
自分よりも食べ物を求められた事実に、カカシは少し悲しくなる。
それでもイルカがあの部屋を、自らの意志で出てきた事には変わりないと、自分を慰めるしかなかった。








アスマが帰った後、二人は当たり前のように隔離部屋に戻り、敷きっぱなしの布団に横たわる。
今は閉じられた障子の向こう、あと半月もしない内に咲くであろう桜に思いを馳、イルカはほんのりと微笑みを浮かべる。

「あの枝垂れ桜が咲いたら…」

「ん?」
「二人っきりであの部屋でお花見しましょうね」
「そうだね、あの桜は見事だよ」
「はい。きっと…花の檻みたいなんでしょうね…」

坪庭を上から覆うように咲く桜。
想像しただけでも、それはとても美しく、幻想的で、イルカは実際に目にする日が楽しみになる。
薄紅の花の檻。
その中でカカシと二人。
それはなんて幸せな光景だろうと、イルカは知らず微笑んだ。
イルカの思考を読んだのか、カカシはイルカを抱き込む腕に力を込め、体を密着させ、囁く。

「その花の檻の中、二人っきりで、ね」

自分の言葉に賛同を貰い、イルカはカカシの胸に擦り寄って笑う。

「はい。楽しみですね」

二人分の体温で温もった布団の中、互いの体に回された手が、不埒な意味合いを持って動き始める。
視線が合えばキスをして、たまに小さく笑い合いながら、まるで猫がじゃれ合うかのように愛しあった。
春に相応しいだろうと、二人で囁きを交わしながら。

【完】

文章目次

配布したGW、桜はカケラも咲いてませんでした。
はい、この話、大嘘ですね…実際は蕾すら無い状態でした。
福寿草は未だに咲いてますが…。桜咲いてない木の下で、
花見してるんですよ、一部の道産子は。ちとニュースで見た
時、驚きました。「花見じゃないhじゃん!」と。
大きい会場だったせいか、持って行ってくださる方がいつもより
多くて嬉しかったです〜。販売物の在庫が片手分しか無くて、
あっさり売り物無くなってしまって、無料配布だけスペースに鎮座。
いったい何をやっているサークルなのかと、皆様不思議に思われた
事でしょう…(遠い目)