優しい人。




普段、イルカ先生はそっけない。

「カカシ先生」とオレを呼ぶ声もどこか硬くて、知り合い以上の含みが全く感じられない。
だけど、オレの任務…あ、7班のじゃなくて上忍としてのね、の後はこれでもかって位に優しい。

任務の後のおかしな精神状態で、イルカ先生ん家の前につっ立ってるオレにきちんと気付いて、何にも言わずに戸を開いて中に招いてくれる。
うつ向くオレの手を引いて、

「あ、靴は脱いで下さいね」

なんて言いながら居間に通してくれる。
ちゃぶ台の上には、しっかり救急箱なんか用意されてさ。

「隠しても分かるんですから、さっさと出しなさい」

ちゃぶ台の横に引かれた座布団に正座させられて言われる。
出来の悪いテストを隠しして叱られる子供みたいだなと思いながら、きっとバツの悪さは彼らと同レベル。
目の前に同じく正座するイルカ先生を、盗みたら困ったような怒ったような顔でオレを見てた。
気まずい気持ちが沸き上がって、あちこちに返り血で斑になってるベストを脱ぎ捨てた。
アンダーをもそもそと脱ぎ、赤が褐色に変わった腕を差し出す。右の二の腕の上にザックリ切られた跡。
腕を動かすと、乾いた褐色の溝に沿って新たな赤が流れた。
その様を見たイルカ先生の眉間に、ギュッとシワが寄った。

「…着替えたなら、止血くらいしなさい」

あはは。バレバレですか、暗部の任務だって。
チラと前髪越しに上目で見上げれば、イルカ先生の目が眇められた。

「暗部装束じゃないと、こんな所、服の下に傷なんてつきませんよ」

苦笑して差し出した右手の手首を、そっと掴んで引き寄せた。
途端、流れる赤。
それを塞き止めるかのように、塗れた布があてがわれる。
ヒヤリとした感触に思わず体が震えた。
ツンと鼻をつく消毒液の匂いがさして広くない部屋に充満した。
徐々に乾いた血が取り払われ、流れる鮮血が消毒液が滴る場に細かく滲みを見せる。
無言で黙々と治療作業を進めるイルカ先生と、黙ってうつ向いたままされるがままのオレ。
でも横たわる沈黙は、けして嫌なものでは無くて。
温かいイルカ先生の指が触れる所から、獣から人間に戻るような気がした。

右腕だけ爪が抜け落ちて、人としての存在に。

右腕の褐色がキレイに拭われ、代わりにガーゼがせの色で染まる。
何枚も何枚も染め上げられ、心中にわだかまっていたドス黒い感情までも拭われたみたいに思えた。
ベトリと得体の知れない色と匂いの軟膏が患部に塗布された。
多分イルカ先生お手製の傷薬。
その事実が嬉しくて、徐々に包帯で隠されてくぼんやり患部を眺めてたら、頬に温かい指の感触。
促されて視線を向けると、その指先でチョンチョンと唇を軽く叩かた。

ああ、口を開けろってコト?

そう判断して、素直にカパっと開けたらクスクスと笑われてしまう。
いつもこの仕草でイルカ先生に笑われる。

そんなに無防備で良いんですか?
いつか、自分が毒でも仕込んだらどうするんです?

と、あまりに簡単に、素直に、まるで子供みたいに口を開けるオレを笑った。

「イルカ先生にがくれるものなら、それが毒でもオレは嬉しい〜よ」

そう言ったら、コラ、って下唇を抓まれた。
困ったように眉を寄せて微笑むイルカ先生。
ええと、マジなんですけどね。
言ったらきっと怒鳴られるからやめといた。
開けた口に、きつい匂いの丸薬をいくつか放り込まれた。
慣れた仕草でそれを咽下し、手渡された湯冷ましで更に奥へと落とし込む。
コクンと飲み込めば、オレの動作を見守ってた先生が、生徒にするみたいに笑って頭を撫でてくれる。

やっぱり同列なのかな?

なんて思ったら無性に悲しくなって、ちょっと我が侭を言いたくなった。
だから「口直しくださ〜い」と声には出さず、視線だけで訴えてみた。
不思議な事に、イルカ先生はこういうアイコンタクトをまず間違えない。
今回も一瞬だけキョトンとし、困ったように自分の傷を指先で掻く。
照れた時の先生の癖。
でもそのまま床に両手を付いて、顔だけを近付けてくる。
ゆっくりと離れた距離がなくなった時、柔らかな感触が一瞬だけして離れた。
物足りなさを感じたけど、体を離した先生が真っ正面で両腕を広げているのを見て、思わず眉が下がってしまう。

「ほら、いらっしゃい」

優しい優しい声音に、オレは誘われるようにフラリと両腕の間に収まる。
オレの為だけに広げられた腕が収まった途端に背に回され、やんわりと抱き締めてくれた。
時折あやすように背を叩き、慰撫の動きで頭を撫でる。髪をまさぐり後ろになでつけて、露になった額にキスをくれる。
唇は額から瞼に降り、頬を経由して僅かな間の後、唇に触れる。
そう触れるだけ。
角度を変えて押し付けるだけのキス。
優しいその仕草と、与えられる感触が幸せ。
先生の背中に腕を回してしがみつけば、ほ、と息が溢れるのが聞こえた。
頬に触れる肩の骨、掌に伝わる背筋のしなやかさ。
女の柔らかさとはかけ離れた、筋張った体なのに、どうしてこんなにも気持気持が良いんだろう。
安心できるんだろう。
そう思った時だった。
イルカ先生がクスクス小さく笑った。
いぶかし気に見やれば、視線だけで「ああ、すみません」と謝ってくる。
謝りながらも笑う気配は去らないのをいぶかしみ、ブゼンとした表情でイルカ先生を見やれば、至極優しい瞳が見下ろしていた。

「…カカシさん、可愛いすぎですよ…ワンコみたい」

クスクス笑う声が酷い事を言われてるのにも関わらず、ことんと鼓膜に落ちるのが嬉しい。
笑う振動がしがみついた手や、肩に預けた頬に伝わり、不思議と安らかな気持になれた。
オレを人に戻す存在。

――イルカ先生。

声に出して呼ばなくても「何ですか?」とにっこり笑ってくれる。
ぼんやりとその笑顔に見惚れながら、ワンコかぁ…と内心呟くき、半ば衝動的に間近にあるイルカ先生の頬を舌でベロリと舐め上げた。
一瞬びっくりして目を見張る先生が凄く可愛い。
だからまた舐める。

「ちょ、ちょっとカカシさん!」

慌ててイルカ先生はオレの頭に手を掛けてもぎ離そうとした。
普通このシチュエーションだと力一杯突き放すんだと思うんだけど、彼はしなかった。
その事実が凄く嬉しい。

「ホントにワンコみたいですよ、まだ獣臭さが抜けて無いんですか?」

頬を彼の両手に包まれ固定されて、真っ正面に困った顔があった。
牙も爪もイルカ先生が触れた場所から抜け落ちたけど、心はまだぼんやりしているのが否めない。
幸せなのになぁ?
イルカの問掛けに答えられず、コトンと首を傾げれば、またクスクスと笑われた。

「人に戻りましょ」

言って頬にキスをくれる。
キスは頬の次に額に与えられ鼻先をかすめた。
いつまでたっても肝心の唇に与えられないそれに業を煮やし、イルカ先生の頭をガッチリと捕まえた。
そして少し厚目の下唇を舐め上げて、唇を重ねる。

「…ぅ、む…」

唐突に塞がれた為か、くぐもった息が先生の口の中に篭った。
角度を変えて更に深く口付けると、歯の硬さが舌先に触れ、ねだるように視線を走らせれば、自然と顎が開かれた。
掴んだ頭を引き寄せて深く深く侵入すれば、熱い相手の舌が鎮座する。
意図を持って舐め、吸い、軽く噛んでやれば、ピクンとイルカ先生の背中が揺れる。

「ん、ぅ…っ」

溢れる抜けるうめきすら、煽る材料にしかならず、オレは気を良くして先生の項を片手で固定し、空いた片手で背中を撫で上げた。
腕の中で跳ねる体が気持ち良い。
オレの裸の胸にすがるように置かれた手が愛しい。
その縋る指先から伝わる体温が、波紋のように全身へと巡る。
血液が血管の隅々まで行き渡るように、かじかんだ手が温みで温まるような感覚。

「カカシさん?」

キスの合間、吐息に近い音でイルカ先生がオレを呼ぶ。
それだけで幸せを感じる自分は、安上がりな存在だろうか?
否、好きな人に名前を紡いで貰えるのは、至上の幸せ。
腕の中にその体温を感じられるのは、生きてるから。
この瞬間、オレは生還した事実に感謝する。
獣から、人に戻る瞬間。

「お帰りなさい。戻りましたか?」

見下ろせば紅潮した頬のまま、イルカ先生が笑いかけてくれる。
言葉と共に、背に回された両手が慰撫の仕草でオレの頭へと移動し、優しく優しく髪を梳き上げた。
固まった返り血が、褐色の塊となってパラパラと床に落ちる。

「ただいま」

ああ、人に戻れた。
今日も、この人の存在で人に戻れた。
口にした「ただいま」の言葉。
言葉を忘れた獣が、言葉を思い出す。

「戻ったんなら、お風呂に行って下さい。血が固まってますよ」
「一緒に入ってくれますか?」
「……怪我してるから特別ですよ」

笑って言うアナタ。
そうやって甘やかせて、オレ1人じゃ立てなくなったらどうするの?
そんな心の声が聞こえたか否か、イルカ先生はまた笑ってオレの頬をそっと撫でた。

「オレが甘やかしたいんですよ、こう言う時は」

クスクスと困った顔で笑う。
その仕草がくすぐったくて、オレは彼の鼻を跨ぐ傷を舐めた。

「…普段は甘やかしませんけどね」

ちぇ。
釘を刺されながらも、必要な時は完全に、これでもか!って程甘やかしてくれるアナタ。
普段は厳しい癖に、こっちが弱ってる時をきちんと見極めている。
厳しいと言っても、裏を返せばオレの為の厳しさであって、決して突き放されている訳ではないそれ。
・・・・・躾みたいと思ったオレは、本当に犬なのかもしれない。

甘やかして。
甘えさせて。
厳しくして。
叱って。

叱るのも、怒るのも、甘やかすのも。
相手を思っていなければ出来ない行動と、感情。

ねえ、優しい人。
優しいイルカ先生。
聞いても良い? 聞かなくても何となく判るけど、でも聞きたい。
アナタの口から直接。

「オレの事、好きですか?」

その瞬間、イルカ先生は心底困った顔をした。
でも、キチンと判ってくれていて、はにかんだように苦笑する顔が凄く可愛い。

「ちゃんと大好きですよ、カカシさん」

こんなに甘やかされて良いのかな?
きっと今、オレはデロデロに溶けそうな位、幸せな顔をしてると思う。
好き、大好き。
怖くて、厳しくて、優しい人。

文章目次

ものすっごい初期に打ったカカイル。