酔。/後




目の前でキスをしても良いかと、カカシが問う。
一瞬から揶揄われているのかと思った。
だが、真っ直ぐにイルカを見つめるカカシの表情は、困惑しながらも真剣で。
カカシの手の中に握り締められた湯飲みが、嫌な軋みを上げ、彼が緊張しているのだと呆然とした思考で何となく感じた。

「な、にを…」

ここ2週間思い悩んでいた原因が、思い悩んでいた事を蒸し返す。
乾いて掠れた自分の声を、どこか遠くに聞きながら、イルカはカカシの剥き出しの唇を凝視し、その感触を思い出してしまう。
瞬間、背筋に走ったのは、悪寒なのか期待なのか、自分の体なのにイルカには判断がつかなかった。

「前に呑みに行った時、オレ、イルカ先生にキスしましたよね…?」
「覚えてたんですか」

実際覚えてるとは思っていた。
だが、2週間も食事や呑みの誘いが無かったのだ。それは暗にイルカの前では酔いたくないと、あの時の出来事を話題にするのを避けているのだと、イルカは受け止めた。
まさか今頃になって蒸し返すとは思わなくて、カカシが何を考えているのか判らず、当惑してしまう。

「はい…まさかあんなトコで自分がキス魔になるなんて、思いもしませんでしたけど」

キス魔という単語に、少しの寂しさを覚えた。
あの場に居たのがイルカで無くても、カカシはキスを仕掛けたと遠回しに言われているような気がして。
そして、あの行為がカカシにとっては本意ではなかったのだと、現実を叩き付けられた気分になる。

「…カカシ先生、あの時酔ってましたから」

だから気にしてませんよ、と、言葉にはせずに苦笑に含ませる。
だが、そっと呟くように言った言葉が、微かに震えてしまのが否めず、その唇の戦慄きを隠す為に、イルカは不自然では無い程度に俯いた。

「酔ってましたけど、ちゃんと覚えてます」

俯くイルカの耳に、カカシの声が追い打ちのように響いた。
声に伴われて脳裏に描く、薄い唇の残像。
薄く開いた合間から覗く舌先まで思い出し、自分の唇にその感触が蘇る。
思い出してはいけないとイルカが自分を叱咤し、本格的に俯いて、残像と感触の切れ端を必死で追い払っている時、ぽつりとカカシが呟いた。
困惑した、弱い声音で。

「覚えてるどころか…」

不意に俯いた頬が両側から温かい感触に包まれ、イルカは驚き顔を上げる。
カカシの両手が顔に添えられた状態に、現状が理解できずに瞬きを数度繰り返し唖然としてしまう。
意外なほど間近にある、灰色がかった青い目。
それに見惚れていたら、間近に存在する唇が苦笑らしき形を作ったのが見えた。
唐突な出来事に順応できずにいるイルカの頬を包んだまま、カカシは先程途切った言葉の続きを告げる。

「あの時のキスが忘れられないんです」
「え…?」
「あんなに夢中になったキスは初めてで…2週間経った今も忘れられないんです。何でイルカ先生にあんな真似したのか、自分でも判りません。でも、日を追う毎にアナタの唇の感触が薄まって行くのが寂しいんです」

イルカは頬を包まれたまま、カカシの片手の親指が唇を器用に撫でる感触を、呆然と味わう。
かさついた表面をなぞる動きに、イルカの唇は先程とは別の戦慄きを見せた。
どうして良いのか判らず、間近にあるカカシを見返せば、困ったような、だけど有無を言わせぬ色を目に湛え、イルカを見つめていた。

「だから…キスしても良いですか?」

何がだからなのだろうと疑問に思う前に、カカシの唇が迫る。
スローモーションのように映るその光景に、期待で背筋に震えが走り、自覚無くイルカはゆるりと瞼を閉じる。
吐息を感じた瞬間、重なる唇。
しっとりと覆い被さり、ちゅっと吸い付いてそれは離れる。
ただそれだけのキスだった。
カカシの唇が離れた気配にイルカは目を開け、いまだ頬を固定されたままカカシを見つめる。

「………気持ち悪く無いんですか?」
「全然」


問えば即座に返される否定の言葉。
それを呆然と頭で反芻してたら、頬を包んでいたカカシの両手がいつの間にか背に回り、引き寄せられる。
抱き込まれる形でカカシの腕に拘束され、イルカは困惑する。
一体これはどういう状況なのかと。
イルカが考え込んでいる隙に、カカシは再度触れるキスを施す。

「ああ、やっぱり…素面でする方が気持ち良い〜…」
「…っふ、もう…やめっ…」
「ごめん、もうちょっとだけ」

ちゅっちゅっと小さな啄みの音が聞こえそうな仕草でされるキスに、イルカはどう振る舞えば良いのか判らずに、身を捩る。
だが拒絶の言葉は意味を成す前に吸い取られ、顔を背ければ指先が顎を固定し、無理矢理に唇が重ねられる。
頭の後ろも大きな掌で包まれ、最早カカシのキスを受け入れざるを得ない体勢になっていた。

「…んふ…っ」

重なった唇の合間から上がった自分の声を恥ずかしいと思う暇も無く、そこから滑るものが咥内に侵入し、開いた歯列を抜けて縮こまっていたイルカの舌を突く。
そしてそのまま絡め取られ、好き放題にされてしまった。
唐突に唇が離れれば、イルカの上がった吐息が二人の合間に小さく響く。

「ああ、そうか…」

ぽつりと呟くカカシの唇の動きをぼんやりと眺めて、イルカは整わない息に羞恥を覚えた。
自分だけが不慣れなようで、悔しい。
そう噛みしめていた時、更にカカシの呟きが吐息と共に耳朶に落ち、いつの間にかがっちりと抱き込まれている自分に気づく。

「好きだから気持ち良いんだ」

どこか嬉しそうなカカシの声に、イルカは反射的にそちらに視線を向ける。
向かい合った椅子に座った状態で上半身を抱き込まれて、カカシの胸元からその顔を仰ぎ見る体勢に恥じらいを覚えつつ、するりと入り込んできた台詞に耳を疑った。

「え…?」

聞き間違いかと、瞠目したままカカシを見遣れば、更に強く引き寄せられ、座ってた椅子から腰が浮いてしまう。
そして引かれるまま、カカシの腿の上へと座らせられてしまった。

「ちょ…っ!?」

あんまりな体勢に、イルカは咄嗟に立ち上がろうとするが、それよりも早くカカシは背に回した腕に力を込め、イルカを拘束してしまう。
丁度胸元に位置するカカシの頭を凝視し、その体勢が居た堪れず、身動ぎすら出来ない。
胸元でカカシが頬摺りするような仕草を見せ、その動きが更に羞恥を煽ってやまない。
そんなイルカの内心などお構いなしに、丁度心臓の上に頬を寄せカカシがうっとりと呟いた。

「アナタを好きだから、好きな人とするキスだから」

好きな人── そう言われ、イルカは思わずカカシの顔を覗き込んだ。
途端、胸元から見上げてくるカカシと視線が絡み、心臓が大きく脈を打つ。

「気持ち良くて当たり前ですよね?」

問いかけられても答えようが無い。
答える術が無いイルカは、カカシの腿の上でただその片目だけの視線を見返すしかできなかった。

「2週間も経って、確認のキスして気付くってのも間抜けですが…どうやらオレ、イルカ先生が好きみたいです」
「何、馬鹿を…」
「イルカ先生はオレの事嫌いですか?」
「嫌いでは…」
「じゃあ、好き?」

小首を傾げて重ねて問うカカシを本気で狡いと思った。
好きか嫌いかしか選択させてくれないなら、答えはどちらかしか有り得ない。
こちらの意向を無視した問いかけに、悔し紛れにカカシを睨め付けも全く効果は得られず、カカシはただ苦笑しただけだった。

「…狡いです…」
「狡くて結構。だって今捕まえないと、誰かに攫われちゃう」

そんな事有り得ないのにと、イルカは思う。
思いながらも、狡い聞き方をするカカシに、素直にその答えを与えるのはどうにも癪で。
だから、憮然とした面もちで囁いてやる。
遠回しな言葉を。

「酔っ払いのキスは嫌いです」

言って思い出す居酒屋でのキス。
カカシを鈍いと攻められない。イルカだってあのキスが無ければ恐らく気づかなかったのだから。
いつしか芽生えてしまった、好きという感情に。

「…どうして、と聞いても良いですか?」
「悲しくなるから………嫌いです」
「じゃあ、素面のキスは好きですか?」
「…」

悲しかった。何の感情も付随せずにされたキスは、気持ち良いというだけで、心の中がすっと醒めていくような寂しさがあった。
だけど今、素面の状態でしたキスは、混乱した頭でも期待や嬉しさが込み上げて、ふわふわした感情が心を満たすのを知った。

「ね?」

無言で睨み付けるイルカの姿で、判っているだろう答えを促すカカシ。
悔しいと思いながらも、イルカは観念して、それでもそっぽを向いて呟いた。
カカシを確実に調子づかせるであろう言葉を。

「………好き、です」

呟きが落ちた次の間には、下から掬われるように唇が重なっていた。
ぶつかるような勢いで重なったそれを、イルカは首を傾けて受け入れる。
冷静な頭の片隅で、今が授業中である事を思い出すが、ちらりと視界を過ぎった時計の針が、イルカを後押しするかのようにカチコチと小さく音を立てているのが見え、瞼を閉じた。
まだ暫く、授業は終わらない。
ならばもう少しこのキスを味わっていたいと、自分に正直になってみた。



その舌を受け入れた時、もう駄目だと観念した。
うっすらと消極的に口を開けて迎え入れれば、嬉々として咥内を蹂躙される。
狡くて鈍い男のキスは、とろける蜜の味がした。


【完】

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