仄暗い部屋に、白い煙がぼんやりと漂う。
机の周りだけを囲むように配置された橙色の灯りに、老爺の姿が浮かんでいた。
老爺、という年齢には至ってはいないであろう彼の、憂う横顔はひどく臈長けた、そして思慮深い年長者の片鱗が伺え、まさしく正しく年齢を重ねた人生の先行者という意味での、老人と称するに相応しい。
灯りが照らす反射で橙に染まった書面を見つめ、その向こうに何を見るのか。
次々と目を通しては煙管を銜え直して、紫煙を燻らせる。
手にした書類によって、皺に埋もれた小さな瞳に浮かぶのは様々な色。
思慮深い顔には表情を乗せず、瞳の動きが雄弁に語る感情。
それは時に痛みだったり、笑みだったり、悲しみだったり。
時折、傍に置いた煙草盆にカンと乾いた音を叩き付け、新たな煙草を雁首に詰め込む仕草を見せる。
と、書面を照らしていた灯りが、翳る。
ふわりと空気が動き、漂っていた紫煙が揺れた。
「帰ったか」
老爺は一言呟くように言い、口元に笑みを浮かべる。
銜えた煙管を唇から解放して読んでいた書面から顔を上げ、いつの間にか机の前に佇む人間を見遣る。
「はい」
ひっそりと返された返答は、空気を振動させる程度の小さなもの。
低いがしっとりとしたその音は、部屋に響かず、だが老爺の耳にはしっかりと届いた。
老爺はその越えに頷き、その姿を見つめる。
長く艶やかな黒髪が印象的な、若い女。
規定の制服をを身につけ畏まり礼を形取る姿は、若竹のようにしなやかで、すっと伸びた背筋に彼女の本質が伺える。
美しくは無いが、柔和で穏やかな容貌と、鉄の意思を持った黒い瞳が、人を惹きつけて止まないだろう。
「長の任務、ご苦労。報告は?」
「ここに」
取り出した巻物を差し出し、彼女は老爺へと近づく。
動く度に流れるように揺れる黒髪は癖が無く、思わず触れたい衝動に駆られるが、老爺は苦笑一つでその衝動を抑え込む。
彼女に触れる事なかれ。
自分の孫にも等しい存在なのだから。
「首尾は上々だったらしいの」
「はい。伝説に上げられたツナデ姫には遠く及びませんが、私も医療を囓った身です。ひとりの死者すら許さぬ気持ちで臨みました故」
「相変わらず、自分に厳しいのう」
「自信と過信は違います…お気づきの点が御座いましたら、ご指摘下されば…」
「責めてるのではない、褒めておるのだ」
「過分なお言葉です…」
恥じ入るように俯く彼女に、老爺は苦笑する。
何度褒める言葉を吐いたとて、自分に厳しく頑なな性質を持つ彼女には伝わらない事を熟知しているのだ。
だから彼女手ずから渡された報告書に視線を落とし、読み進めて目を細めた。
大まかな流れをきちんと把握しながら、必要な部分は丁寧に説明されたその書面は、他の者が認めたものに比べて、遙かに判りやすい。
多角的な── 言い換えれば、他人の視点を持つ事の出来る希有な人物。
報告書ひとつで、彼女が見たであろう場面が感嘆に脳裏に浮かぶのだ。
「医療外…本来のお主の任務も恙無く終わったようじゃの」
「はい…部下が優秀でしたので」
あくまでも自分一人の手柄では無い事を主張する彼女に、老爺は更に苦笑するしか無かった。
諜報と戦闘。
相反するそれらをこなし、彼女は帰還した。
比較的長い任務期間だったと、老爺は報告書に記された日数を思う。
半年にも及ぶ任務は珍しくも無いが、外回りと呼ばれる戦闘中心の戦忍を除けば、十分に長い期間であろう。
戦場に居を置き、日夜駆け引きと戦闘を繰り返して、乞われれば戦略の草案すらこなす。
それでも階級は中忍故に、侮られ易い事実に眉を顰めた。
「お主…上忍にはなりたくは無いのか?」
尋ねれば困ったような曖昧な微笑みを返す彼女に、老爺は溜息をつく。
その微笑みで知れてしまった。
階級は彼女にとって、何の魅力も無い存在だと。
「…昇格よりも、やりたい事が出来てしまいました」
ひっそりと呟くような彼女の声に、老爺は書面を辿っていた視線を再び上げた。
そこにはどこか迷子を彷彿させる顔の娘。
困惑と、救いの手を待つ危うい存在。
老爺は思う。
彼女が救いを求めるのなら、自分に向かって伸ばされているであろうその手を掴んでやりたいと。
「やりたい事?」
「はい」
向けられたのは、強い瞳。
黒曜石にも似た潤みを持つ目は、部屋の仄かな灯りを反射し、冲に群れる漁り火のように幻想的だった。
そして悟る。
彼女は救いを求めているのでは無い事実を。
彼女が求めているのは、認証。
恐らく、自分が反対するであろう事を彼女はしたいのだ。
だから目上の者には礼を尽くす彼女が、わざわざ老爺に言質を求める。
仄暗い空間。緊迫した空気が一瞬だけ流れるが、それは老爺の溜息で壊れる。
「お主がそんな目をする時は、いつも難題が控えているものよな」
再度ついた溜息に交えて言えば、彼女が苦笑する気配が伝わった。
鋼の意思を持つ娘。
自分で決めた事ならば、他人がどうこう言おうと梃子でも動かない、頑固さを持つ。
クスクスと笑う姿を残念に思う。何故これが娘で無かったのかを。
幼き頃から見守って来た故に、どうにも過保護になってしまうのが否めないと、老爺は煙管を忙しなくふかす。
「私の本質を理解してくださっている里長を、心から尊敬しますよ」
言って彼女は悪戯っ子のように笑った。
その表情に老爺は彼女の幼少の頃を思い出す。悪戯好きで自分ですら諭すのに手を焼いた子供の頃を。
その悪戯の裏に隠された感情に気付くのが遅すぎた自分を、老爺は悔やむ。
今となっては後の祭りだが。
今でも彼女に甘いのは、彼女の本音を知る数少ない人間だからかもしれないと思いながら。
過去を懐かしむ老爺── 三代目火影が彼女の難題に目を剥くのは、その数分後の事だった。
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無謀な長編始動です。
終わるのかな…コレ。
お付き合い下されば幸いデス。