夜凪/1




上忍師として初めて認めた子供達。
その口々にのぼる恩師の名を、何度聞いた事だろうかと、カカシは思う。
人となりから、プライベートな事── 彼女居ない歴何年とか、女体変化で鼻血を吹いたとか、恐らく本人が知れば、赤面せざるを得ない事まで知ってしまった。
何よりも、里の忌み子として疎まれていた子供の口から、常と言って良い程に名が出るのだ。
興味を覚えない方が可笑しいだろうと、勝手に納得し頷く。


煩い事ばっかり言うけど、それはオレの事を考えてくれてるからだってば!


金色に輝くゴム鞠のような子供が意気揚々とはしゃげば、黒髪の子供がいつもよりも幾分柔らかな顔で、懐かしそうに呟いた。


あの人は…人間として尊敬できるから。


何を思い出しているのかまでは判らない。だが、少年と件の教師との間に、何らかの遣り取りがあった事が伺える言葉と表情に、カカシは少なからず驚く。
上忍の自分でさえもを、呼び捨てにする少年の感慨深げな言葉に。


そうよね。イルカ先生って頭ごなしに叱ってるイメージあるけど…年長クラスになってからは、本当にしちゃいけない事をした時にしか、怒らなかったわ。


頷く桜色の少女の言葉に、更に興味が湧いた。
この年頃の子供達は、大人の気配に敏感で、酷く見抜く目を持っているから。
3人が3人共、褒める。
時には自分の思い出を重ねて面映ゆく褒められた記憶を披露する姿に、カカシは眩しいものを感じた。
自分が子供時代に、ほんの一時だけ経験する事が出来た、大人への信頼感。
それが目の前の子供達の中に、きちんと根付いている事が嬉しかった。
決して、大人への依存では無い感情。
大人とは、先を生きている存在だと、教師とは先を導く存在だと、教えられずに感じ取る事が出来た僥倖を、彼らが自覚していないのが寂しいが。
それでも、幼い口にのぼる共通した名前に、深い感嘆と興味を持つのは、間違っていないとカカシは笑う。
人間としての基礎を叩き込んでくれた件の教師に、密かに感謝を捧げながら。








「はじめまして」

そう先に声に出したのはどちらだっただろうか。
もしかしたら、同時だったのかも知れない。だって、目の前の男は苦笑して困ったような顔をしているから。

「7班の任務お疲れさまでした。報告書に不備はありませんので、受領しますね」

言ってポンと軽快な音を、渡した報告書に判子が押されるのを、ぼんやりと見つめた。
朱肉の色も鮮やかなそれの最下部に、受領官の名前を記す彼を眺め、彼のフルネームを知る。
無骨でいながらも丁寧さを感じる筆跡に、何となく好感を持てたのが不思議だった。

「お会いするのは初めまして、ですね。アカデミー教師のうみのイルカです」

先に受付の業務を果たしてから、立ち上がり目下の者としての礼をする姿。
慇懃にならぬ程度に下げられた頭に、カカシは一瞬戸惑う。
自分は礼を尽くされる存在では無いのにと。

「イルカ先生、ですよね? 子供達から噂は聞いてますよ」

そう言えば、目の前の黒髪がピョコンと跳ねるように飛び起き、ほんの少しだけ赤らんだ頬のまま彼はカカシを見上げ、鼻梁を跨ぐ傷を指先で掻く。
どんな噂か気になるのだろう、小首を傾げて困ったような顔をするイルカが可愛いと、不意に思った。

「大丈夫で〜すよ、悪い噂じゃありませんから…ん〜ナルトのお色気の術で鼻血吹いたとか…」

「うわ!? アイツそんな事まで言ったんですか!?」

ほんの少しだった頬の赤らみが、首筋にまで及ぶものに変化し、イルカの焦る姿が微笑ましい。
良くも悪くも「人間」を感じ、カカシは初対面の目の前の男に、目を奪われる。
仕草ひとつが、酷く人間臭いのだ。
忍里で、否、戦場で人生の大半を過ごしたカカシにとって、イルカは珍しい部類の人間だった。
感情が豊かそうで、懐が深い。
たった数分の受付での遣り取りでそんな内面を伺わせるイルカに、カカシは更に興味を覚えた。
子供達が口々に名を上げるからではなく、カカシ自身がイルカを知りたいと、そう思ったのだ。

「アイツらのアカデミーでの行状なんか、教えてくれたら嬉しいな」

自然とそんな言葉が飛び出て、カカシ自身が驚く。
担当する子供達の過去の行状を知る事は、これから先を計画するのに確かに役立つが、そんなものは書面で片が付く事を頭では理解しているのに。
でも、何故だか、イルカの口から聞きたかった。この人の視点で見た子供達の姿、それはどんな風に映り、把握されているのだろうかと。
カカシの言葉に驚くイルカに、口布の下で知らず微笑んでしまう。

「この後は空いてますか?」

カカシは小首を傾げて、イルカへとお伺いをたてる。
そんな自分の姿が珍しかったのか、受付に居合わせた数人の上忍が心底驚いたような気配を漏らすのが、ひどく可笑しかったが、それよりもイルカの反応が気になった。
一瞬、キョトンとカカシを見上げ、探るような眼差しを返している。
カカシの誘い文句を、社交辞令なのかどうか戸惑っているのだろう。
カカシは、上忍という立場の面倒さを思い知り、ガリガリと後頭部を無造作に掻く。
ここは任務受付所。
他人の目も有る中、誘いの言葉を口にしてしまった自分に否があるのは明らかで、縦社会である隠れ里故の上下関係の存在に内心溜息をついた。
気軽に誘っては、彼の立場も悪くなってしまう事を失念していた。
それでも引き下がる気は毛頭無く、カカシはハッキリとした誘いの言葉を再度イルカに告げる。

「…、呑みに行きませんか?」

出来るだけ柔らかい口調で伺うカカシに、イルカは弾かれたように時計を確認した。
受付カウンターの奥にある、飾り気の無い丸い壁掛け時計を。

「受付業務の後は大丈夫ですが、その…あと1時間ほどが担当の時間なんですが…」

心底申し訳なさ気に、律儀に告げる彼にカカシは苦笑した。
唐突なカカシの誘いに焦ってはいるが、嫌がっている雰囲気は見えない。そんなイルカの様子に息をつき、カカシは愛想良く承諾の言葉を紡ぐ。

「待ってますよ〜、終わるまでね」








初めましてからたった数時間。
それだけの時間で、何となくアカデミー教師のイルカという人物を判った気になっていたのは何故だろうとカカシは首を傾げる。
男の付き合いの筆頭である酒を共にしたせいもあるだろうが、何よりも、イルカ本人が醸し出す雰囲気がとても心地よかったのだ。
会話を交わせば、思考の回転の速さが伺える応えや相槌が返って来、出しゃばる事をしない気質が垣間見えた。
それでもカカシから会話の糸口や繋ぎ目を投げかければ、驚く程饒舌に、そして率直に意見を述べる。
特に子供達に関しては殊更熱心で、それを口実にしたカカシの胸に小さな罪悪感が芽生えてしまう。
上忍師として子供達を昇格させた辺りから、要らぬ情報をくれる輩が急増した。
その大半がナルトに関しての事であり、それに付随してナルトが懐く教師の事も耳に入った。
九尾の子供に懐かれた男。
誰が初めに言ったのか、「狐憑き」の呼び名にひっそりとカカシは秀麗な眉を顰めた。
重ねて「三代目のお気に入り」、だの「受付の癒し」だの、男相手に何をほざくと唾棄したいものが多かったのを思い出す。
前者に関しては鼻先で嗤った。
里長とは、そんなに甘い存在では無いと、カカシ自身が嫌と言う程に知っているから。
後者に至っては…危うく頷きそうになって、慌てて留めた。
確かに、受付に座るイルカの姿は、ナリこそ男であれ任務に赴いた人間に安堵の息をつかせるものがあった。
過酷な任務であればある程、それを経験した人間は里に帰還したという実感を持つ。
たった一言の労いの言葉。
それだけで凍えた感情が息を吹き返す事は、長い期間、暗部という闇にに在籍した自分が一番良く判っているのだから。
何とも不思議な存在だと、カカシは酒気を帯びて頬を赤らめる目の前のイルカを眺める。
出会ってほんの数時間で、自分までもがこの男に惹かれているのが否めないのだから。
イルカを評する前評判を聞いていたせいだろうか、彼から語られる自分の担当下忍の話に、カカシはほんの少しだけ驚きを見せる。
正直、ナルトの話で終始すると覚悟していたのだ。
だが、イルカの口から紡がれた内容は、確かにナルトから始まり、継いでサスケ、そしてサクラ。
分け隔て無く、そして的確な特徴を捉えた彼らの話を、紐解いてみせたのだ。

「嫌なものは覚えないってのは、子供の特徴ですよね…特にナルトなんてそうでした」
「まあ、嫌なもの程、耳に入れたくないですよね〜」
「そうなんですけどね、耳学って侮れないんですよ、特にサクラなんか耳から入った情報はずっと後になっても覚えていたりしましたよ。それが授業中の雑談みたいな内容でも」
「へ〜、女の子って耳年増とかいうけど、興味の対象が多いのかな?」
「ああ、そうかもしれませんね…サスケは自分が欲するものを満たさないものには興味を覚えず…確かにアカデミーの成績は良かったんですけどね、何か目標があって事だったみたいで…」

うちは一族の事情は知らされてはいるが、その深いところは耳にしていないらしいイルカの様子。
それでもその事件をあからさまに口にしない所に、彼の思慮深さを知った。
俯き猪口の底に僅かに残った水面を見つめる。
恐らくアカデミー時代にサスケにしてやrたかった事を考えているのだろう。根っからの教師然とした彼に、ほんの少しの羨ましさ覚えつつ、カカシはそれを紛らわせるようにイルカの猪口に銚子の首を宛てて酒を注ぐ。
無言で継がれた酒に、驚いて顔を上げたイルカと視線が絡む。
黒い瞳が酒によって潤んでいるのに、何故だかカカシの心臓がひとつ跳ねた。
表面上は変わらぬカカシの猪口に、イルカが微笑んで返杯をする。
途切れた会話。
言葉の無い空間。
それが心地良いと感じたのは初めてだったと、後になってカカシは思った。








子供達との任務を終わらせ、一息ついたら召集が来た。
任務を拝命した時間が比較的早かったせいか、まだ今日という時間に帰還できたと、自分の忙しなさを自嘲する。
内容的には大したものでは無かったとは言え、自分の過重労働ぶりに涙が出そうだ。
このまま過労死などしないか、本気で心配になってしまう。

「あ〜、明日もアイツらを待たせちゃうね…」

一端布団に飛び込んだら、きっと自分は爆睡体勢に入るだろう。
上忍師になって1ヶ月程度。昼夜二重の任務に体が慣れておらず、どうにも体に疲労が溜まりやすく、毎朝の習慣も時間を遅らせてのものとなっているのだ。
当然、子供達はその間待たされる運命にある。
そんな事をつらつらと考えながら足を動かせば、夜間受付の灯りが見えた。
どうしてかあの灯りを見ると、安堵してしまう自分が居た。
こんな時間、イルカ本人が居る訳でも無いのに。

「任務お疲れさまでした」

掛けられた声に、至極驚いた。
居ないと数秒前に思いこんだ人物が、笑顔で自分を出迎えてくれたのだから。
深夜に近い時間、受付の灯りは半分落とされ、昼間は人間が忙しなく動くこの空間を、とても寂しく閑散としたものとしていた。
帰還しても、どこか寂しい空間。
そんな中、カウンターに佇み、労いの言葉をくれるイルカを、眩しく感じてしまう。
それこそ、背後に後光すら見えるような気がした。

「イルカ先生…夜勤…?」
「ええ、明日はアカデミーが休みなので…普段は夜勤シフトにには入らないんですけどね、今回は急遽頼まれて…」

急遽の部分に何か事情があるのだろう、イルカが苦笑する姿に和む自分。
そんなイルカに向かって勝手に歩を進める自分の足に、まるで誘蛾灯に誘われる蛾みたいだとカカシは思った。
ふらりと覚束無い足裏の感触。
なのに着実に、イルカに近づいているのだから。

「あ、報告書お願いし…」

お決まりの言葉を最後まで言う前に、カカシの言葉は止まってしまう。
中途半端に差し出した報告書を、イルカが腕を伸ばしただけで受け取り、真剣な目を走らせた。
そしていつもの「不備云々」の台詞を言う為に顔を上げ、固まったままのカカシに気づいて首を傾げる。

「どうかしましたか?」
「イルカせんせ…その子、…?」

ああ、と、イルカが合点したように頷き、目上の者の報告書を片手で受け取るという非礼の原因に視線を落とす。
イルカの膝に跨り胸に頬を押し付ける形で、小さな子供が眠っていたのだ。
ナルト達よりもずっと幼い子供を、強ばりから解けたカカシは覗き込む。
ふっくらとした頬は、思わず突きたくなるような滑らかさで、それでも子供特有の乳臭さが無いのが不思議だった。
それでも眠る顔は整っていて、人形のような容姿を持っていた。

「か〜わいいね、アカデミーの子?」

声を潜めずに会話する自分達に挟まれても、むずかる様子すら見せずに眠る子供。
まじまじと眺めれば5〜6歳だろうか、アカデミー生にしては幼い気もするが、自分という前例があるのだから違うとも言い切れない。
べったりとイルカに抱き付いた姿勢に、懐かれて居るんだと素直に思う。
だから全く予想していなかったのだ。
子供達からも、そしてイルカからも聞いたことが無かったから。
そんなカカシの問いかけに、イルカは少し困ったような笑みを向ける。
だがその一拍後、手にした報告書を机に置き、空けたその手でイルカは胸に懐く子供の背を撫でる。
ひどく慈しみ深く、辿る指先にまで愛情が滲んでいるのが見える仕草で。
そしてカカシに向かって告げるのだ。
短い付き合いの中でも、カカシに見せた事の無い極上の微笑みを湛えて。


「いいえ、俺の子ですよ」

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文章目次

子持ちシシャモならぬ、子持ちイルカです。