足を踏み入れた瞬間、嫌な気配がした。
それはまるで、当たり前にある空気のように存在し、空間に漂うように充満して。
死と、ギリギリのラインで踏み溜まっている生の気配。
踏み込んだ闇に目を凝らし、辺りを窺えば、幾重にも重なる黒影に、まさかと思わず息を飲みそうになるのを、僅かに理性で溜まった。
忍の耳ですら、拾うのがギリギリの呼吸音。ピクリとも動かない塊達。
生きている者も、死んでいる者も判別すらせず、打ち捨てるように押し込めた空間。
饐えた匂いが隠る倉庫のような空間の向こうに、窓すら無い石造りの壁が見えた。
その壁の元にも、小さな塊。
暗がりの中に目を凝らせば、それは比較的幼い子供達が固まっているのが判った。
知らずそちらへと足を向けてしまう。
足音を忍ばせ、気配を消し、壁の下に固まる一団へと近付いた筈だった。
「起こさないで…」
吐息のような微かな声が、空気を震わす音にカカシは思わず足を止めた。
本来ならば気付くことすら出来ない自分の接近を、誰かが関知し、それを咎めたのだ。
訝しんで歩を止めて声の主を捜せば、近寄ろうとしていた壁の下の一群、その中心に一人の少年が座っていたのが見える。
「やっと眠ってくれたんです…だから起こさないで…」
そう言う彼の周りに寄り添うように、何人もの子供が横たわる。
まるで子猫が身を寄せ合い、暖を求めるかのように。
その中でも一際小さな子供を膝に乗せ、赤子を抱くように抱える少年がただひとり、この空間で身を起こしている存在だった。
壁に背を預けてこちらを伺う少年を、カカシは呆然とした面もちで凝視すれば、不意に浮かんだ異国の宗教の存在。
それを模した彫像の姿が、カカシの脳裏に浮かび、消えた。
「木の葉の、暗部…の方ですか…」
暗がりに浮かぶ動物面を認めたのだろう、ごくごく小さな声で少年が呟いた。
そしてほっと息が抜けるような感覚が伝わる。
どうやら警戒が解かれたらしいと理解し、気配を消すのを止めて壁際へと近づいた。
「アンタが先任の…?」
階級は聞いてはいなかったが、集団に紛れられる忍を先任者として送り込んでいたとは知っていた。
情報収集の要として、細かな状況を里へと報告していたらしい。
実際自分もその報告内容は、任務前の下準備として目にしたのだ。
文字の拙さを覗けば、見事としか言いようのないものだったのを思い出す。
有る程度の経験を積んだ大人でも珍しい、要る事、要らない事をきちんと把握し、正確な情報だけが短く纏められたそれを目にした時、正直感嘆したのだ。
だから以外だった。
あんなに丁寧で子細な情報を、こんな子供がしたためていたという事実が。
そう思う程、近づいて伺った少年は酷く幼く、頼りなかった。
見かけで判断するならば、暗部としては若いと言われ続けている自分よりも、幾分年下だろうか。
「…はい」
そっと歩み寄り覗き込めば、痩けた頬にかかる不揃いの黒髪の合間から、濁りの無い黒い瞳が見上げてきた。
腕に抱えた子供を起こさぬよう、小さな仕草と声で答える姿に、彼の優しさと思慮深さを伺える。
バサバサに汚れた黒髪が、勿体無いと思って仕舞う自分が不思議だったが、それよりも任務が優先だと、少年の状況を把握しようと視線を動かした。
「…何よ、それ…」
知らず眉を潜め呟いてしまう。
屈み込み、よく眺めれば、壁に埋め込まれた厚い鉄板。
そこに溶接された鎖と、そこから繋がる足枷が少年の足首に食い込み、拘束していた。
手袋越しで枷と足首の境目に触れれば、布を挟んで感じるねっとりと濡れた感触。
思わず舌打ちしたくなった。
力の限り足掻いたのだろう。
眼下に晒された彼の足には、グルリと皮膚が破れ、肉が覗き、膿み爛れる傷があった。
そして足全体、否、髪に隠された顔にまで広がる、殴打や様々な虐待の痕跡。
それらの傷の存在で、少年のここでの扱いを垣間見たような気がした。
「…見苦しくて済みません…」
困ったように微笑んで囁く少年の声に、何故謝ると怒鳴りたくなったが、口を開いた段階で状況を思い出し押し留まる。
怒鳴るよりも脱出の方が先だろう。
そんな自分の考えが読めたのか、少年は申し訳無さそうに呟き、腕の中の子供を揺すらない程度の動きで差し出してきた。
「俺は使い物になりません…申し訳無いですが。この子達を…他の人達を、早く…」
そんな少年の様子に苛立ちを覚える。
自己犠牲的な精神。
今度こそカカシは怒鳴ろうと少年を見れば、その黒い目に浮かぶのはどうしようもない諦めの色だった。
だから気付いた。
少年の行動は自己犠牲ではなく、現状を把握した上での切り捨てなのだと。
現場で動けぬ人間は、足手纏いにしかならない。
恐らくその事実を、幼いながらに自覚しているのだろうと。
そう思い至った途端、開いたカカシの口からは溜息と呆れた声しか出てこなかった。
「…アンタ、馬鹿?」
そう口にした途端、少年の目がきょとんと丸くなる。
何を言われたのか理解出来なかったのか、小首を傾げてカカシを見返してきた。
否、理解はしているのだろう、「何故?」と丸くなった目が問いかけが浮かんでいるのが見えたから。
カカシはまた大仰な溜息を吐き、面越しでその黒い目を真っ直ぐに見つめ、言う。
「とりあえずオレに言い渡された任務は、生きている者達の奪回と、アンタの回収。特に、アンタに関しては生きてる限り連れて帰れと言われているから」
暗部の面を着けた自分を怯む事無く見つめ返す姿に、カカシは正直感嘆する。
命知らずか、大物か。
自分の命を切り捨てようとした位なのだから、前者かとカカシは嘯く。
少年の思惑は知れないが、カカシに与えられた任務は前述した通りなのだ。
少年が生きている以上、里に連れ戻さなければならないのだ。
「それにさぁ」
いまだ納得しないらしい少年の表情に苦笑しつつ、カカシは重ねて告げる。
この任務が、少年が命がけの下準備をしたこの任務が、今どのような状態にあるのかを。酷く端的に、傲慢な程の口調で。
「オレ達が動いたんだ、終わるよ、この任務」
自分の言葉に、思わず唇の端が釣り上がってしまう。
暗部が動いた。
その事実だけで十分だろうとカカシは嗤う。
オレ達と、複数形で語られたそこに含まれた意味に、少年は気付くだろうか。
この場に居るのは確かにカカシ1人ではあるが、任務自体に宛てたれた人員は小隊ひとつ分。
木の葉はこの任務に終止符を打つと決めたのだ。
暗部が隊を組む、それは即ち殲滅を意味する。
「…でも」
カカシの言葉を耳にして尚、少年は戸惑うように瞳を揺らし、カカシを見上げた。
少年の口にする切り捨ての言葉は、確かな現場の積み重ねが垣間見える。だから暗部が拘わった任務がどんなものかも、自ずと知れている筈だ。
それでも口篭もるのは今の彼の状況のせいだろう。
動けない自身を振り返り、捕らえられた現状に歯噛みする。
カカシは少年のその様子に、何故だか好感を覚えた。
「ドジ踏んで捕まった訳じゃ無いでしょ? 多分アンタは自分から捕らえられたんだ。ここに居る他の連中と同じ…一般人として。違う?」
少年の設えた書面から伺えたその性格。一途で真面目で現実を知っている者の観点から見た事を、客観的に伝える事のできる冷静さ。
用心深ささえ伺わせるそんな人間が、些細なミスを犯すとも考えられないと、カカシは判断したのだ。
そしてその答えは、応。
少年は逡巡しつつも、カカシの言葉は小さく肯定した。
「…違いません」
小さく震える空気の振動。実際自分達の会話は音となるほど大きくは無く、その振動によって言葉を伝え、微細なそれで言葉に含まれた感情を知る。
まだ何か言いたげな少年を制し、カカシは少年の傍らに座り込み、囁く。
「ま、言い訳は里に戻って三代目相手にでもしてよ…」
言って手に取ったのは、少年の足を繋ぐ鎖。
ほんの少し動かしただけで、金属の擦れ合う嫌な音が小さく響くのが不快で、カカシは面の下で苛立ち紛れに舌打ちをする。
「もうすぐ事が起こる。それに乗じて鎖を砕くから…ちょっとだけ待ってて?」
鎖を握った手にチャクラを集中させ、具現化する程練り込める。
仄かに青白い火花がチリチリと爆ぜ、後はタイミングを計るだけだった。
持っていた鎖を冷たい床に押し付け、掌をその上に押し付ければ、頭の中でカウントダウンが始まった。
死体にも似た伏した群衆が折り重なる中、ふたりは息を詰めてそれを待つ。
そして、カカシの頭で最後の1秒が数えられた瞬間、遠くないどこかで耳を劈くような爆音が轟いた。
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【ピエタ/Pieta 】
[哀れみ・敬虔の意] 画題の一。
キリストの遺体を膝に抱いて悲しむ聖母マリアの図像。嘆きの聖母像。
↑の本来の意味あいじゃなく、バチカン サン・ピエトロ寺院の
ミケランジェロ彫刻のイメージが、私の中では強いです。