ピエタ。/後




カカシは張った腹を抱えて思わず横になってしまった。
初めて口にしたイルカの手料理に、胸もいっぱいだが腹もいっぱいなのだ。

「カカシ先生、行儀悪ですよ…それに、食べてすぐ転がると、牛になります」

笑いながら茶を啜るイルカの姿に、なぜだかほんわりとした温かく嬉しい気持ちになってしまう。
初めてのお宅訪問に緊張したのも束の間、イルカに甲斐甲斐しくもてなされている内に緊張は遙か彼方に溶け去り、気付けば酷くくつろぎまくっていた。
この空間は、カカシに警戒心の欠片も起こさせぬ程に心地よかった。
いいや、とカカシはその考えを即座に否定する。
確かにこの空間── イルカの家は心地よい場所なのだろう。
しかしそれ以上に、くつろいだイルカの傍が気持ち良くて油断しすぎてしまうのだ。
初めて持った教え子達を介して知り合った、アカデミーの教師。
教え子達の口から頻繁に語られる彼のひととなりに興味を持ったのが最初だったか、初めて顔を合わせて以降、何故だか酷く気になって、カカシはイルカに誘いをかけて高い頻度で食事をしていた。
それこそ、自分で首を傾げる位に、何度も。
今までは居酒屋や屋台、たまにカカシの奢りで料亭など、所謂、外飯で食事を摂って来たが、度重なるカカシからの誘いと数度に渡る決して安くない奢りのせいか、最近イルカが恐縮しはじめ、誘いに応じるのを渋り始めたのだ。
それでもカカシは諦めがつかず、次の約束を取り付けようとすると、イルカが困ったように笑い、自宅へと招いてくれたのが今日の事。
その苦笑じみた笑顔に既視感を覚えながらも、カカシは一も二もなく頷き、今に至る。

「行儀悪くてゴメンナサイ。旨かったんでつい食い過ぎました…ご馳走様です」
「お粗末様です…男の手料理で申し訳無いですが」

茶を手にしながら本当に申し訳にと思っているらしいイルカの台詞に、出された料理の数々を反芻する。
確かに盛りつけは大皿料理のようで豪快だったが、味は至極美味かった。
どさっと盛られた山に一瞬驚きはしたものの、口に入れた瞬間の幸福感は今まで感じた事の無いものだし、知らず頬が緩んでしまう。

「ご謙遜を。旨かったですよ、本当に」
「そう言って貰えると、作った甲斐があります」

少し照れた表情で、イルカは鼻梁を横切る傷を指先で掻く。
それが、照れたり困ったりした時のイルカの癖だと知ったのは、一体いつ頃だっただろうとカカシは寝転がった状態のまま、年代物の卓袱台の向こうを見上げる。
いずれにしろ、自分とイルカの距離が段々と近くなっている感覚が嬉しくて、カカシは目を眇めた。
その視線をどう受け止めたのか、不意にイルカが立ち上がり、卓袱台の上に置かれっぱなしだった食器を片づけ始めるのが見えた。

「わ、スミマセン! オレ洗いますよ!」
「良いんですよ、カカシ先生は今日はお客様ですから」

クスクス笑うイルカの声に楽しげなものが含まれているのに気付き、カカシも大人しく引き下がる。半分起きあがった体勢のまま、台所に消えるイルカの姿を視線で追って、息をついた。
ガリガリと乱雑に自分の頭を掻き、ほんの少しの自己嫌悪を覚える。
あまりにも居心地が良すぎて、初めて訪れたというのにも拘わらず、自宅以上にくつろいでしまう自分が不思議で。
一歩この部屋に足を踏み入れた瞬間から、警戒心と言う名のねじがポロリと抜け落ちた感じがし、自然と安堵の息を漏らしてしまったのを思い出す。
どうしてこんなにも惹かれるのだろうか。
他の忍達が言うように、イルカの言葉や表情、仕草に、「癒し」を感じる時もあるが、そればかりを求めている訳では無い事を、カカシは自分で理解している。
彼の言動の端々から垣間見える、過去のイルカの姿に酷く好感を持った。
他人にも自分にも厳しい。そしてなかなか辛辣な、優しいだけでは無い存在。
現実を見る目を持ち、瞬時に全てを理解して答えを弾き出す事の出来る、希有な忍。
惜しむらくはその階級。
欲を出せば、まだ上に上れるだろう可能性を、自分で握り潰す潔さに呆れながらも、何となく「らしい」と納得してしまった。

「カカシ先生、避けないと踏んじゃいますよ?」

流石に踏んでくださいと言ったら、退かれるだろうか?
そんな事を思いながらイルカを見上げれば、真っ黒い瞳と視線がぶつかり、何となく居たたまれ無さを感じてしまう。
それと同時に、脳裏には過去一度だけ見た黒い目の存在が浮かび、不意にその持ち主を思いだした。
随分と前の任務で会った少年。
黒い髪、真っ直ぐな黒い瞳。
状況を把握し、命乞いすらせずに自分を切り捨てろと視線で言い切った潔さ。
どこかイルカを彷彿させる印象の重なりに、カカシは再び寝転がって少年の姿を思い出そうとする。
不揃いに顔に掛かった長めの髪で、顔に傷があったかは知れない。だが、そこから覗く瞳の印象が、焼き付いたように鮮明に思い出せるのが不思議だった。
そして、抉れた足首の感触。
触れた時の感触が、もう何年も経っているのにも拘わらず蘇り、カカシはぼんやりと傷に触れた自分の指先を見つめる。
障害は残らなくとも、表面上の完治は難しいであろう傷跡。
枷が擦れて肉を抉り、治療もせぬまま爛れるに任せたそれ。
過去に幾度か見た似たような傷を元に、カカシは頭の中で少年の足首を想像する。
肉の抉れはそのままに、段差のように陥没したその部分に、張り付くように張った皮膚がきっと今でも痛々しいのだろうと。

「そうそう、丁度こんんな感じ…って、え…?」

頭の中で描いた足首そのままのそれが目の前を横切り、カカシは相槌を打つように頷き呟くが、次の瞬間、信じられないものを見たかのように目を見開き呆然とする。
そして反射的に、目の前を忙しなく動く足首を力一杯鷲掴んだ。

「ぶべっ!?」

奇妙な声と共に、ビタンと畳の上にイルカが倒れ込む。
見事な程無防備に転んだイルカに気付かないかのように、カカシは自分の手が掴んだイルカの足首をまじまじと見つめた。

「…痛った…、いきなり何するんですか…」

畳にぶつけた鼻頭を抑えながらイルカが体を起こすのが視界の端に映ったが、カカシは構わず掴んだ足を凝視し、検分する。
持ち上げ、目の前に翳し、指先でそこにある信じられない傷をなぞって。

「ああ、それ…昔、任務でドジ踏みまして…

足を掴んで離さないカカシに困ってか、イルカは苦笑して鼻傷を掻く。
どうしよう。と、カカシは胸に込み上げる歓喜に震えそうになるのを押し止める。
過去、たった1回だけの邂逅。
なのにその清冽な印象だけを残し、再び会う事の無かった少年の姿がここにあるのだ。

「嘘。アンタ…ドジなんか踏んで無いでしょう」

言ってカカシはイルカの傷に唇を押し付けた。
その唐突なカカシの行動と皮膚に触れる唇の感触に、イルカが目を白黒させているのは判ったが、もう離してやらないとカカシは思う。

「良かった…アンタ、生きてた」

外で会っていた時は、目にする事の出来なかったイルカの素足。
そして寝転がった視線でなければ、気付かなかったかもしれない事実に、カカシは笑いを堪えられない。
普段はゲートルに隠されたイルカの足首に、鮮明に残る傷痕。
それは足首をグルリと周回し、過去に肉が削げ、肉が剥き出しになった状態だったのが伺えるもの。
抉れた肉のすぐ上に新しい皮膚が張ったのだろう、足首を周回するようにそこの部分が陥没して、明らかな段差が出来ているのだ。
完治しているのだろうが、酷く痛々しく生々しい。

「ねぇ…自分から捕まるなら、今度はオレに捕まってよ…」

再度足首に口吻し、カカシは囁く。
ちらりと見上げたイルカの頬が紅潮している様を可愛いと思いながらも、抵抗が無い事に安堵する。
嫌なら、自分を蹴り上げれば済むのだから。
気を良くしたカカシは、足首の引き攣れた傷を舐め上げる。
獣が傷を舐めるような仕草で。
それでも抵抗を見せないイルカに後押しされ、カカシは上体を起こしてイルカへと覆い被されば、潤んだ黒目がカカシを見上げ、未知の世界に怯える視線を向けていた。
それでも突き飛ばされる事も無く、カカシの背に躊躇いがちに回された腕が酷く愛おしい。
眩しいものを見るように目を眇めて見つめていたら、イルカが小さな声で呟くのが聞こえた。

「…馬鹿ですね…あの時からずっと、俺はアナタに捕まったままなのに」

顔を真っ赤にしながらも告げてくれた内容に、カカシは胸が詰まり言葉が出ない。
つまり、イルカは最初から気付いていたのだ。
あの時の暗部がカカシだったと。
そしてカカシ同様に、あの邂逅を忘れずに居てくれたのだと。

「本当に? だったら嬉しい」
「嘘ついてどうするんですか、こんな事…」

背中に回った腕に力が隠り、イルカがカカシの首筋に顔を埋める。
耳まで朱に染まった姿にイルカが照れているのを知り、思わずぎゅっと抱き締め返せば、服越しに伝わる確かな体温。
その温もりに、ついつい頬が緩んでしまうのが否めない。
ずっと胸の奥に仕舞い込んだ少年の姿。
それは今、目の前に居る成長した姿へと置き換わり、鮮やかに色づき、宝物のように大事に思えた。

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文章目次

前半のイメージでタイトルつけたら、
後半はそこから大幅に外れて…(T▽T)
前半冒頭部は半年以上前から携帯に打ち込んであったのに、
今まで書けなかったテイタラク。
やっとこさ日の目を見れたので(自己)満足です。