酔。/中




思い出すだけで、背筋に言い様の無い痺れが走る。
悪寒にも似た、けれども全く違う、甘い痺れ。
ともすればじんわりと体の奥が熱くなり、頬が紅潮しそうになる。

たかが、キスひとつで。

そうイルカは落ち込みそうになる。
カカシの過去の遍歴が伺える、まさしく腰が砕ける寸前に追い込まれた口づけだった。
あの感触を思い出し、自分の口内を好き放題にした舌の温みを反芻すれば、陶然とした感覚が思考に紗をかけ、あらぬ妄想に拍車をかける。
思い出せばそれだけで四肢が震えそうになり、知らず頭を振って思考を散らした。
迫る唇の映像を、頭から追い出すように。





あのキスの夜から2週間程が経過し、それでもイルカの中からカカシの唇の感触は消えなかった。
担当のクラスが無い空き時間の今、採点の途中だというのに、不意に思い出しては指先を唇に持っていき、触れた自分の指の感触で我に返った。
そんな事を何度繰り返したか。
その度に自己嫌悪に苛まれ、生まれてしまった恋心に蓋をした。
やっぱり好きだなと自覚する度に、その自覚した想いを意思の力で押し潰し、いつもの笑顔で対応する。
口布越しでも響く低音の声に、耳から傾倒しそうになる自分を叱咤し、世間話に花を咲かせる。
ただ、あの日の出来事を覚えているのか否か、カカシはその話しには一切触れなかった。
酒の誘いもピタリと止んでしまい、些細な接点のひとつを失って寂しいと、イルカは眉を下げて更に落ち込む。
いっそ自分も酒に弱ければ、記憶が吹っ飛ぶ位に弱ければと思ってしまう。
そうすれば、カカシの唇を思い出して、寂しくなる事も無いのにと。
無意識に手にした赤ペンの尻をガジリと噛んで、意識が思考の海に漂うのを止められない。
思った所で、遺伝だと思われるこの体質が、簡単に変わる訳でもないのに。
カカシとのキスから2週間、そんな事を繰り返していたせいか、手の中の赤ペンの尻には歯形が幾つも刻まれていた。
丁度、他の職員が担当の授業で不在なのに安堵しつつ、唇に触れたギザギザの感触に苦笑し、噛んだ歯の間からペンを解放した時だった。

「そんなクセあったんですね〜、イルカ先生ってば」

不意にかけられた声。
一瞬空耳かとイルカは思い、空耳まで聞こえるようになった自分の重傷加減を自嘲しようとすれば、重ねて声はイルカに向かって言葉を投げかける。

「あれ、聞こえてませんか?」

確認する問いかけにやっと本物のカカシの声である事を知り、反射的に振り返る。
そして振り返った先にあった光景に、知らず目を瞠り驚く。
望んだ姿が、確かにそこにあったから。
声も姿も、海馬が摩耗するのではないかと危惧する程に反芻して求め、諦めた姿が。
一瞬、目を眇めてイルカはその姿を見つめてしまうが、現状を把握した瞬間、眇めた目を再び見開いてしまった。
アカデミーの職員室。
その窓枠に足を掛けて外から身を乗り出すカカシの体勢に驚いて、思わずひっくり返った声を出してしまう。

「ちょ…ここ3階ですよ!」
「うん、教務室は3階にあるね」
「じゃなくて、危ないです」
「………先生、オレ、一応忍ですけど? しかも上忍」

言われてイルカは赤面した。確かにその通りだと。
場所がアカデミーなせいか、それとも軽く頭が混乱していたせいか、つい子供を相手にする時のように諫めてしまった自分が恥ずかしい。
そんなイルカをどう思ったのか、カカシは窓枠に足を乗せたままイルカを眺める。
何かを確認するかのような視線で。
だが、軽い自己嫌悪に陥ったイルカは、その視線に気付かずに駆け寄ってカカシを中へと促す。
頬を紅潮させたままで。

「それはそうですが…中に入ってください」
「良いの?」
「子供が見たら、真似しますから」
「は〜い、スミマセン」

のんびりと間延びした子供のような返事に、苦笑を覚えながらもイルカは自分の隣の席の椅子を引いて、どうぞと笑い、自分は立ち上がる。
机の上に放置された自分の湯飲みを掴み、席を外す事を断って。

「お茶、入れてきますね」
「あ、お構いなく」
「手間でもありませんし…出涸らしですが」
「貰えるだけ、十分です」

クスクスと、小さく笑いながらの遣り取りは楽しい。
胸の奥のシクシクとした、言い様のない痛みさえ無視すれば。
イルカは職員室の隅に設えられた給湯室に駆け込み、手早く茶を入れる。
出涸らしなどと口にはしたが、流石にそんな真似は出来ようも無く、急須に新しい茶葉を入れてポットから湯を注ぐ。
本来ならきちんとした手順で入れるべきなのだろうが、あまり待たせる訳にもいかないだろうと、その点は目を瞑って貰うことにした。

「はいどうぞ」
「スミマセン、気を遣わせてしまって」
「いいえ…で、俺にご用ですか?」
「はい」

手渡しされた茶碗を受け取り、カカシは口布を下げて静かに啜る。
渋茶を啜る姿さえ格好いいと思う自分の思考を、イルカは末期症状だと内心溜息をついて落ち込んでしまう。
その心情を表情には出さずに、自分も手にした茶を啜った。
チラリと姿を見るだけで跳ねようとする鼓動。
自覚以前は無かった体の反応に、イルカは苦笑するしかなかった。
感情に振り回される体── 心臓が、あまりにも正直で。
手の中の茶碗を握りしめて緑の水面を覗き込めば、自分の口元に自嘲めいた笑みが刻まれているのが映っていた。

「イルカ先生」

低い、だが鮮明な声に呼ばれ、顔を上げる。
だが、上げた視線の先、茶を啜る為に口布を降ろしたカカシがイルカを見つめる。
幾度か食事や酒の席で見てはいたが、改めて眺めてもそれは見惚れる造作で、イルカは知らず凝視してしまう。
少し眠そうな瞼と薄い唇。特出して目立つ部品ではなく、恐ろしくバランスの整った配置が作る稀少な造形。
真っ直ぐに見つめ返すイルカの目をどう受け取ったのか、カカシは何かを躊躇うように両手で茶碗を握り締めていた。

「…カカシ先生?」

確かに自分を読んだ筈なのに黙するカカシを訝しみ、イルカは小首を傾げてカカシの様子を伺う。
だがそれでもカカシは言葉を紡がず、気拙気に湯飲みを弄ぶ仕草を見せるだけだった。
そもそもカカシは、なぜここに来たのだろうかと、今更ながらに疑問が浮かんだ。
今まで顔を見れば声を掛けて挨拶を交わしたり、立ち止まって世間話なんかをする事はあったが、カカシ自らがイルカを訪ねる事は無かったのだ。
受付所や廊下やどこかへの道すがらに立ち話をし、その会話の流れで呑みに誘われたりしていたのだから。
わざわざイルカを訪ねてきたらしいカカシの様子に、イルカは7班の存在を思い出す。
彼らの事で何か用があったのだろうかと。

「あの…」

意を決したかのように、湯飲みを握り締めたままカカシが切り出す。
どこか困った様子で視線を彷徨わせ、俯き、やがて戸惑いがちにイルカに片目だけの視線を向けて来た。
ひたりと見据えるその目に、どこか落ち着かないものを感じながら、イルカはじっとカカシの唇が動くのを待っていた。
だが、イルカの緊張を余所に、カカシが告げたのは予想を遙かに外れた事だった。

「キスしても良いですか…?」

躊躇いがちに言われた言葉に、イルカは絶句してしまう。
2週間の時間を経て、何故今更カカシがそんな事を言い出したのか判らない。
ただ、胸の奥に期待と絶望が踊っていた。

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