本当に考えた事が無かったのだ。
何せ子供達は口を揃えて彼の事をモテ無いと言うし、何よりも彼の雰囲気は妻子持ちの意欲に満ちたものでは無かったから。
人にもよるだろうが、男という生き物は妻を持った時点で覚悟を決め、子供を持った時点で意欲に目覚めると聞く。
例えばそれまでただ何となく生活していたものが、唐突に上を目指したり、自信に満ちた目をしていたり。
子持ち特有のガツガツとしたアクティブさが、イルカからは感じられなかったのだ。
「それが、あんなにデッカイ子供が居るなんて…」
昨夜の光景が脳裏に蘇り、カカシは溜息をついた。
安っぽい蛍光灯に照らされた受付所で見た、親子の姿を。
イルカの膝── 正確には腿に跨り、その胸にべったりと頬を預けて眠る子供は、あどけなくも可愛い。
そうは思うのだが、この落胆振りは何なんだろうと、カカシは自分の中に湧いた、モヤモヤとした気持ちに首を傾げる。
たかが友達に子供が居た位で。
例えばアスマや近しい人間── ガイは除きたいと心底思うが── が、自分の知らない内に子供が出来たとて、ここまでの衝撃は無かったと思う。
はず驚いて、そして話してくれなかった事を水くさいと揶揄する程度で済むだろう。
その違いがどこから来るものなのか、カカシには判らない。
知り合ってからの時間が短いとは言え、カカシにとってイルカは立派に友人の部類に振り分けられているのに。
イルカが子供を抱いて微笑む姿を思い出す度に、胸がギシリと音を立てたように軋む。
後から思えば、その感情に名前を付けるのが怖かったのかも知れなと思った。
イルカの子供── 名前はヤナギというらしく、その子は不思議な程にイルカに似ては居なかった。
強いて上げれば黒髪のみが彼からの遺伝で、その他の部分にイルカの特徴を見付ける事が出来ないのだ。
だから何度か、誰か他人の子供を引き取って育てているのかとも考えた、しかしその考えは、イルカ本人が語る思い出話によって打ち消される結果に終わるのだ。
例えば、生まれた時は未熟児で、しかも産み月満たずで帝王切開での出産だっただの、今はこの年の子供にしては大人し過ぎるが、生まれて暫くは夜鳴きに悩まされただの。
どう解釈しても、生まれた時から共に生活していたと思われる言葉を、イルカは苦笑を交えて話すのだ。
そして何よりも、ヤナギを見つめるイルカの瞳が、全てを物語っていた。
あれは子供を見守る親の視線。
紛れもない慈愛のそれを、カカシは何度も見せつけられた。
その度に、胸が小さく軋む。
嫌な感触を訴える胸に指先を宛てながらも、カカシはその痛みを無視する事に決めた。
軋む胸と、イルカの傍ら。
天秤にかければ、何故だかイルカの存在に大きく比重があったのだから。
「カカシ先生、どうしたってばよ?」
下から覗き込むように金色が視界に飛び込み、不覚にもカカシは驚く。
物思いに耽っていたせいか、ナルトの接近を感知できなかった自分を内心叱咤しつつ、見上げる子供の青い目に頬が緩んだ。
ナルトも含め、自分の担当した子供達は皆、澄んだ目をしていると思う。
子供は皆そうかもしれないが、その多くの存在の中でも飛び抜けて綺麗だと思ってしまうのは、親馬鹿みたいなものだろうか。
今まであまり縁は無かったが、カカシは子供が嫌いでは無いと、自分では思っている。
好きかと言われれば首を傾げるが、自分の周りを騒がしく巡る彼らを目の当たりにしても、煩わしいと思う事は無かった。
多少、精神力と体力を使うのは、否めないが。
今日も少年2人が小さな小競り合いを交わし、少女が片方を諫める光景に、眦が下がってしまう。子供は無駄に元気だと思いながら。
と、不意に疑問に思った。
イルカの子供であるヤナギ。
あの子目の前の3人よりも随分と年下にも拘わらず、随分と大人しい。
夜の受付所でのイルカとの対話。その幾分か後にトロンとした目を向けた子供の存在を、カカシは思い出す。
むずかる様子も無く、ただイルカにしがみついてカカシを伺う、感情の乏しい目。
「ヤナギ、カカシさんにご挨拶は?」そうイルカが囁けば、キョトンと小首を傾げながらも至極小さな声で、「コンバンハ…」と囁くように言った姿に、驚いた。
目の前に唐突に居た親以外の存在に怯える事も無く、ただぼんやりとした視線を動かすだけの子供に、カカシはただ意外だと感じた。
イルカの子供だと言うからには、もっと感情豊かだと勝手に思いこんでいたのだ。
「ん…、なぁナルト…」
「何だってばよ?」
「イルカ先生の子供、知ってる?」
「イルカ先生の子供って、ヤナギ?」
そのナルトの返答に、カカシはガクリと首を落とした。
やっぱり知っていたのだ。なのに何故、ナルトの口からその話題が今まで出なかったのだろう。
カカシが落ち込んでいたら、どうもヤナギの存在を子供達は皆知っていたらしく、途端、彼らの話題は広がっていく。
「アイツはオレの弟みたいなもんだってば!」
「可愛いわよねー、お人形みたいで」
「大人しい子だな、確か」
知らなかったのは自分だけかい!? そう落ち込んでも構わないだろうか。
思わず膝を抱えていじけたくなってしまうのは、何故だろう。子供達の手前、さすがに実行はしなかったが。
そんなカカシを余所に、子供達はイルカとヤナギの話題で盛り上がる。
確かに愛らしいし、大人しいし、子供にしては珍しく聞き分けが良いだろう。
そして彼らが話す内容が肥大するにつけ、カカシの胸の軋みは大きくなって行く。
無意識にベストの胸元に手をやりギュっと握りしめれば、ただ布の感触が爪先にめり込むだけで痛みは消えはしなかった。
だが、子供達の会話と自分が知る情報を脳内で取り纏めれば、奇妙な点が浮上した。
「……ヤナギの母親は…?」
思わず尋ねても、誰も首を横に振るばかり。
イルカとの会話の中にも、ヤナギの母親、即ちイルカの妻の存在は皆無で、カカシは巧みに誤魔化されたその存在が気になり始めた。
それとなく子供達に促しても、表情を硬くし黙ってしまう。
一様に口を閉ざした彼らを上手く誘導し、口を割らせれば、返って来た応えに落胆した。
結局、誰も知らなかったのだ。
ナルトでさえも。
ただ、アカデミー時代、ヤナギと共に居たイルカに何人かの生徒が尋ねた事があったと、困ったように告白した。
その時のイルカの様子を見て、触れてはいけない部分だったのだと、子供ながらに悟ったらしい。
「……イルカ先生、凄く悲しそう…ううん、寂しそうだった」
「ヤナギの話をしてた時は、親馬鹿全開って感じだったのに」
「ああ、あんな泣きそうな、無理した笑顔は見たくない」
口々に語られるその時の様子。
恐らく子供達もイルカの様子から、今のカカシのように悟ったのだろう。
イルカの妻だった存在は、ヤナギを残して死別したか別れたかしたのだと。
家庭の事情を含め、立ち入って良い問題では無い。
子供は大人よりも思慮深かったのだと、カカシは内心舌を巻く。
下世話な欲求で他人の心を踏みにじる大人は少なくない。なのにイルカが手がけた子供達は、他人の痛みを察して退く事を知っている。
これは子供達の思慮というよりも、こんな機微に飛んだ彼らを手がけたイルカを称賛すべきだろうかと、カカシはぼんやりと黙り込んだ子供達を見つめた。
うだうだとカカシが考えている間にも時間は流れ、だがイルカに妻が存在しないと判った時点から、胸の軋みは薄れていた。
ヤナギを見ても普通に可愛いと思うだけで、胸は何とも無かった。
どうにも軋みの原因は「イルカの妻」だったらしく、ヤナギでは無いとカカシは胸を撫で下ろし、息を吐いた。
流れる時間に任せ、ゆっくりとした速度ではあるが、イルカと食事をする頻度が高くなった。
時にはヤナギを間に挟み、食事も旨いと評判の居酒屋なんかで盃を交わす時間が、カカシにとっての至福となった。
そんな事を繰り返せば、知らぬ間にヤナギもカカシに警戒を解き、判り辛いが懐いてくれているらしく、たまにカカシの膝上や腕に収まってくれるのが凄く嬉しかった。
子供の重さや体温の高さは、飛びかかって来るナルトで知っているつもりだったが、カカシが初めてイルカの手からヤナギを預けられた時、あまりの軽さに驚いた。
それでも体温は子供特有の高いもので、その事に安堵する自分が可笑しいと思った。
「イルカ先生、この子、随分軽くないですか?」
「ええ、少し発育不良気味ではありますが、大丈夫、これからきちんと育ちますよ」
自分はそんなに心配そうに尋ねてしまったのだろうか、苦笑しながら答えるイルカの姿に眉尻が下がってしまう。
それでも抱いたヤナギの体温が服越しに伝わるのが嬉しくて、ゆっくりと張り付く子供の背中を叩いて見た。
道端で母親が子供をあやすのを見たのを思い出して。
「…眠いなら寝て良いぞ〜」
「カカシ先生、代わりましょうか?」
「いいの、温かくて気持ち良いから」
そんな会話を交わしながら、カカシはウトウトとし始めたヤナギの背を眠りに誘うように、ぽんぽんと優しく叩き続ける。
寝息が零れるまで後少し。
腕の中の温かい存在に、カカシが知らず笑みを零せば、不意にイルカの視線を感じた。
そっとそれを盗むように伺い見れば、黒い瞳に悲しみが浮かんでいるのが見えた。
どうしてそんな顔をするのだろうと、カカシは訝しむ。
唇は確かに微笑みを浮かべているのに、目はどこか無くしたものを見ているような様子。
ヤナギの体温が楽しくて、独占しすぎたのだろうかと、カカシは焦る。
自分だって配下の忍犬や部下が、他者に懐くのは面白く無いのだからと思い至るが、どうにもイルカの目に浮かぶ感情はそれとは違う気がするのは気のせいだろうか。
そして、はっと気付く。
イルカの目に映っているであろう光景に。
恐らく彼は思い出しているのだろう、妻の姿を。
当たり前のように慈しんで子供を抱く存在を。
思った瞬間、ここの所治まっていた胸の軋みがぶり返す。
それは軋むなどという生易しいものでは済まず、カカシは心臓を握りつぶされる心地を味わい、そっと唇を噛み締めた。
そして知らず声に出してしまう。
「誰を思い出してるの?」
自分でもぞっとする程に平坦で冷めた声が出た事に、カカシは驚く。
腕の中の子供は柔らかく温かいのに、心が痛い程に冷えて行くのが止められない。
「誰も…」
そう返すイルカが憎いと、一瞬だけ思った。
嘘吐きと心で詰りながらも、カカシは空いたイルカの猪口に酒を満たす。
理解できない自分の感情を、誤魔化すように。
「ヤナギって名前、イルカ先生がつけたんですか?」
「ええ」
「由来とかあるんですかね、やっぱり」
カカシは腕に収まる存在を覗き込み、目を細める。
居酒屋の小上がり。
決して子供には宜しくないであろう環境下でむずかりもせずに眠る子供に、剛胆さを覚える。
それはイルカから受け継いだ美徳だろうか。
流されるのではなく、あえて馴染むようなその姿に思わず笑みが零れた。
「昔…言われた事があるんです」
ヤナギを眺めていたら、ぽつりとイルカが言葉を落とす。
カカシ手ずから満たした猪口の水面を眺めながらも、遠くを見つめる眼差しに、再度胸が軋んだ。
それを押し殺し、カカシは尋ねる。
痛みが増えるだけだと、判っていながら。
「へぇ…何て?」
「似ていると…それが凄く嬉しくて、忘れられなくて…だからつけました、ヤナギと」
「ヤナギ、柳…風に吹かれて揺れる様? ん〜、似てるかなぁ?」
途端、イルカの顔が泣きそうに歪んだ。
微笑みを湛えたまま、だがイルカは確実に泣いていた。
その潤みを見せる黒い瞳に、カカシは罪悪感を覚える。
恐らく言ってはいけない事を口にしたのだろう、自分は。
イルカの琴線に触れてしまった言葉が判らず、謝る事すら出来ない。
ただ、腕の中のヤナギの体温、それだけがカカシが感じる現実だったかもしれない。
どうして、たった5行の粗筋がこんな長さになるかな…?
つか、展開バレバレですねん。イルカ相手もバレバレですね。