遠くを見つめ、泣きそうな笑顔そ見せたイルカの顔が、脳裏から離れない。
何度も何度も反芻して自分の非を繰り返し探したが、自分の発言のどれがイルカの琴線に触れたのか、未だに判らないのが困りものだった。
このままでは、何度も同じ轍を踏んでしまうとカカシは危惧する。
だからと言ってイルカと疎遠になった訳でもなく、どちらかと言えば近くなったと思う。
とりあえず、自宅に呼ばれる位には。
あれから何度か夕食を共にし、結構な頻度で誘うカカシをどう思ったのか、イルカが自宅に招いてくれたのだ。
思い返せば、子供を伴った食事で居酒屋というのは、イルカの立場上良くなかったかもしれないと、カカシは反省する。
それでもこうやってイルカ宅でくつろぐ事を許されたのは、怪我の功名かとほくそ笑んだりもしたが。
今日もヤナギは、最初はイルカに懐いていたものの、時間が経つにつれカカシにも懐く。
「いらっしゃい」と、イルカが戸を開けた時も、その傍らにはヤナギの姿があり、カカシはヤナギの頭をひとつ撫で、イルカに「おじゃまします」と声をかける。
それが、日常。
たった数ヶ月。
その短さが感じられない程に、カカシはこの空間── イルカとヤナギを挟んだ3人での空間を、当たり前のように受け止めていた。
それはイルカも同様らしく、気付けば気取らない食事が食卓に並ぶようになり、さり気なくカカシの好みのものを用意しておいてくれる小さな気遣いに気付いた時、感動すら覚えた。
カカシ専用の茶碗と湯飲みが、イルカ宅に常備されたのにも。
ヤナギが小さな両手で、カカシの前に白米を盛った茶碗を差し出し、それを笑って「ありがとう」と受け取る。
イルカが大皿に乗った料理を無造作に置き、汁物を人数分よそえば、皆で手を合わせて夕餉が始まる。
まるで疑似家族のような光景。
ヤナギの頬についた米をイルカがヒョイっと指先で摘んで自分の口に運べば、カカシは箸先に本日のメインを摘んでヤナギの口に放り込む。
小さな口をあ〜と開ける子供の姿は酷く愛らしく、知らず眦が下がってしまう。
「あ、カカシ先生もオベントウ付けてますよ」
小さく笑う気配と、口元に伸ばされた指先。
気付けば、カカシの口元についていたと思しき米粒は、イルカの口の中に収まっていた。
呆然とした面もちでイルカを眺めれば、焦ったようにイルカが慌てる。
「あ、済みません! 勝手に…」
「いえ…」
わたわたと慌てるイルカの姿に、僅かに唇に触れた指先に感触が嘘では無いと確信すれば、その感触を反芻してしまって、どうしてかカカシの頬が熱くなる。
恥ずかしいのかもしれない。
いい年した大人が、食べこぼしを他人に指摘される間もなく、取られるなんて。
それと同時に、凄く嬉しかった。
カカシは今自分が居る場所を見つめ直す。
古いアパートに使い込んだ卓袱台。
食卓の上にはごく普通の食事が湯気を立てる光景。
目の前には微笑むイルカと、懐く子供の姿。
ああ、とカカシは声には出さずに頷く。
不意に胸に込み上げたのは、涙が出そうな程の幸福感だった。
特別じゃない空気が流れるここは、幸せの空間だと痛いほどに感じたのだ。
今日も船を漕ぎ始めたヤナギを腕に収め、カカシはあどけない顔を眺めた。
見れば見る程、イルカの特徴を受け継がない子供。
黒い髪も確かに質は違い、イルカが真っ直ぐで強い髪質ならば、ヤナギは柔らかく寝癖の残りやすい猫毛だった。
そして、初めてヤナギの目を見た時も驚いたのだ。
眠るヤナギの黒髪と、イルカの子供という先入観からか、子供の瞳は真っ黒だと信じて疑わなかった。
だから、初めてヤナギと目が合った時、蛍光灯に照らされた青灰の色に、酷く驚いた。
少し眦の垂れた大きな瞳が、ぼんやりと自分を見つめるのを、カカシは呆然と眺めてしまったのだ。
腕に収まる小さな体躯とそれに見合った重さを感じながら、最早恒例となってしまったこの時間に、カカシは苦笑するしかない。
「良く寝ますね〜、この子」
「カカシ先生の膝と腕が、居心地良いんでしょうね」
「親を差し置いて、申し訳無い気分ですが…オレも温かくて気持ち良いんですよね…」
「あはは、それは何よりです」
茶を啜っていたイルカが笑って立ち上がり、卓袱台に乗ったままの夕食の残骸を片づけ始める。
それを申し訳ないと更に思いながらも、カカシはヤナギを抱いたまま動こうとはしなかった。
以前に同じような状態で片づけ役を申し出たら、丁重にお断りされてしまったのだ。
何となく、台所はイルカの領域なのだと悟って、それ以降は自重するようにsているのだ。
代わりと言っては何だが、数回に1回の割合で食材を持ち込む。
だが1度、心苦しさに負けて米袋を担いで訪れた時はイルカに困惑され、次からは旬のもの中心に切り替えた。
「ん〜、米袋は拙かったかな〜?」
「金銭を直接渡されるよりはマシですが、カカシ先生が持ち込んだ米…格が高すぎです」
「低くすれば問題無い?」
「格の上下もありますが、米は無いでしょう、米は」
「米って毎日食べるから良いかな〜と思ったんですけどねぇ」
「だからと言って…玄関先に米袋を両肩に担いだ上忍の姿を見た時、俺、居た堪れ無くなりましたよ」
さして多くない食器を洗い、茶の間に戻って来て苦笑しながら卓袱台を拭く。
そのままの流れで、新しい茶をカカシの湯飲みに注いでさり気なく差し出す。
下手に手が出せない程に隙が無い、家事全般を淀み無く行うイルカの姿に、カカシは毎回中途半端に伸ばした手を、力無く下ろす。
自分の不甲斐なさに自己嫌悪しながらも、差し出された湯飲みをヤナギを支えるのとは逆の手で掴み、啜る。
人から差し出されたものを検分もせず口に入れる自分に不意に気付き、カカシは内心苦笑する。
だってこのお茶は、あきらかにカカシ用にと淹れられたものなのだ。
少し猫舌気味の自分の為に、普通よりも幾分か低い温度にまで冷まされているのだ。
その小さな心遣いに心が揺れる。
胸が痛い。
軋みと全く違う、痺れるように広がる疼きのような痛み。
「今日、魚屋で秋刀魚を見かけたんですけど、そろそろ旬ですよね〜」
「ええ、油の乗る時期ですね。お好きなんですか、秋刀魚?」
じわじわと広がる痺れを誤魔化すように話題を振れば、イルカがそれに乗ってくれた事にほっとする。
腕のヤナギを具合が良いように抱き直し、カカシはまた一口茶を啜った。
「うん、塩焼きかな、やっぱり。煮付けも捨てがたい」
「じゃあ、明日は秋刀魚尽くしですね」
「うわ、済みません! 催促したみたいで…オレ、帰りに買ってお邪魔しますね」
「え、俺が買ってきますよ」
「いつもご馳走になってるんです。イルカ先生は焼いてくれるだけで良いですよ」
あ、煮付けもか。と自分で突っ込んで笑う。
他愛もない会話と雰囲気が、自分を優しく包んでくれる空間。
浸りたいと思いながらも、毎日カカシはそれらに別れを告げる。
腕にヤナギを抱えたまま奥の部屋へと移動して、敷かれた布団にそっと小さな体を降ろす。
小さな寝息はとても心許ないものだが、瞼が閉じた顔は安らか愛らしい。
その黒髪をクシャリと撫でて、今日もイルカに暇乞いをするのだ。
まるで、日常に決別するかのような覚悟をしながら。
秋ともなると、夜更けの道は寒くなってくる。
それでも吐く息が白くなるのは、随分と後の事なのだが。
凍え始めた高い空に、雲間から煌々とした月が顔を覗かせるのをぼんやりと見上げながら、カカシは足下から這い昇るような寒さに、知らず身を縮込ませた。
猫背の背が、更に角度を深めてしまう。
「寒くなってきたねぇ」
呟いても乾いた空気が振動するだけで、答える存在は皆無。
自分でも判っているのだ。
この身に感じる寒さが、決して秋の気温によるものだけでは無い事を。
イルカとヤナギが存在する空間。
あのアパートから一歩踏み出しただけで、胸が── 心が寒くなってしまうのだ。
何度引き返して、戸を叩こうと思った事か。
実際、無意識に踵を返しかけて我に返ったのは、昨日だったか一昨日だったか。
何だろう、この感情は。
ぽつんと立った路上に一人、捨てられたような感覚。
ずっと昔、それこそヤナギ位に幼かった頃に、経験した事があるような感覚。
あれはどうして感じた感情だったかと、カカシは過去を振り返り思い至った瞬間、ビクリと背を揺らした。
「オヤジが…死んだ後…」
カカシが父親を亡くした日。その冷たくなった遺体を見付けたのは、幼いカカシ本人だった。
母親と呼べる存在はとうに無く、父親も任務優先な人間だった為に、当時の自分が家族という言葉を認識出来ていたかは知らない。
だが、カカシの頭を撫でてくれた唯一の存在が消えた日、そこからカカシの感情はどこかに置き去りにされたような気がする。
あくまでも、今思えばの事だが。
漠然と、それでも確実に流れる毎日。
日が過ぎれば過ぎる程に、小さなカカシの胸に言いようのない感覚が募ったのを覚えている。
まるで心に、ぽっかりと穴が開いたような。
そこから入り込む隙間風に、内側から冷え込んで行くような、そんな感覚。
だが、その感覚は、後に引き合わされた師と仲間によって、自覚の無いまま、カカシ自身によって誤魔化されてしまった。
だからといって穴が塞がった訳では無かった。
尊敬できる師に出会っても、信頼できる仲間が出来ても、穴は小さくなっただけで開いたまま。
彼らですら埋める事の出来なかった感覚は── 寂しさ。
「ああ、そうか…オレは寂しかったのか」
今更、滲むように理解できた感覚、そして感情。
寂しさを埋めてくれる存在を、見付けてしまったが故に自覚してしまったそれに、カカシは呆然とするしかなかった。
それでも足は勝手に踵を返し、元来た道を辿り直す。
迷いも、躊躇いも、微塵も感じさせない足取りで。
そして、温かな空間への戸を叩き、自分は困ったように言うのだろう。
「泊めてください」
おそらく家主は断らない。
笑って頷き、柔らかな場所を提供してくれるのだ。
甘えすぎていると自分でも判っている。
だけど、満ちた気持ちを味わった今、もう一人では居られなかった。
イルカ宅での夕餉が日常になったように、カカシが泊まるのもまた、日常と化した。
泊まると言うのはこの場合正しくないだろうと、カカシは自分で訂正を入れて苦笑する。
自分の立場は、所謂、居候というものに該当するのだ。
あの帰宅する足を返した秋の夜。
予想通りイルカは自分を招き入れ、ヤナギの隣に布団を敷いてくれた。
子供を挟んで、まるで川の字になって眠る親子のように、3人で眠ったのだ。
翌朝、朝餉の場に居たカカシを見上げ、ヤナギがきょとんと小首を傾げ、その後綻ぶように笑ったのが忘れられない。
初めてだったかもしれないと、その時やっと気付いた。
懐かれていると思っていたにも拘わらず、ヤナギの笑顔を見たことが無かった事実に。
感情の起伏が少し乏しいと、イルカに聞いていたからかもしれない。
それでも初めて目にした子供らしいヤナギの表情に、申し訳なさと共に、温かいものが込み上げた。
カカシが任務で里を空ける意外の時間は、すべて、うみの親子と共にあった。
イルカはアカデミー教師を専門にしている為か、受付業務をこなす以外は、日帰りのような任務の他は殆ど回ってこない。
だから3人揃って食事を摂り、川の字になって眠る形は、いつのまにか当たり前の光景となった。
どうしてイルカがここまでカカシを受け入れてくれるのかは判らない。
もしかしたら、知らない方が良いのかもしれないとさえ、思ってしまう。
それほどに、失うには惜しい空間。
失いたくない位に、幸せな気持ちだったのだ。
夢を見ていた。
イルカ宅に世話になるようになってからは、1度として見ていなかった夢を。
それはひとり寒い部屋で眠る時に、頻繁に現れてはカカシを苛む。
自分以外は黒で塗りつぶされた空間── 上下も左右も無い漠然とした闇の中に、カカシは佇んでいた。
闇はカカシを拘束し、足下から這い上る黒い感触は、まるでどこかに引きずり込むかのようで、ジワリジワリと皮膚から浸食されるような感覚に嫌悪を覚えた。
そして、無音の空間だと思っていたのが嘘のように、闇からは声が聞こえ始める。
声、では無く、呻きが。
ああ、これは怨嗟の声。
今まで屠った人間達の自分を呪う恨みの声だと、カカシは闇に絡め取られながら漠然と思った…途端、黒一色だった世界が転変した。
赤・朱・赫。
生臭く、鉄錆に似た匂いは、紛れもなく血液のそれで、カカシを拘束していた闇はぶち撒かれた血溜まりの光景へと変化したのだ。
ドロドロとした粘液質の赤黒い水が、カカシに纏い付き、その血溜まりへと引きずり込もうと更に長く幅広く、尾を伸ばす。
オマエもここに落ちて来いと、声にならない怨嗟は不協和音でカカシに喚く。
もしかしたら叫んでいたかもしれない、自分は。
絶え間無い怨嗟の声に、かき消されたかもしれないが。
「カカシ先生ッ!?」
目を開ければ、心配な面もちのイルカが自分を覗き込んでいるのが見えた。
ぼんやりと視線を彷徨わせれば、肩を強く揺すられ、再度名前を呼ばれる。
大きな声では無いが、強くしかりとした声で。
「あ…イルカ先生…」
全身に汗が噴き出した深いな感触が、現実世界に帰って来た事を知らしめて、カカシは大きく息を吐く。
イルカの名を呟いた声も掠れを持ち、喉が乾涸らびて粘膜が張り付くような感触が気持ち悪かった。
「スミマセン…起こしちゃって…」
ザラザラと何かが引っ掛かるような咽をやり過ごし、何とか声を出してイルカへと謝罪の言葉を口にする。
カーテンが引かれているとはいえ、室内は暗く朝の気配はまだ遠い。
明らかに安眠を妨害したであろう自分を悔やむ前に、イルカの安堵の吐息が聞こえた。
「いえ…大丈夫ですか?」
言いながらもイルカは素早く立ち上がり、グラスに水を汲んで来てくれる。
差し出されたそれを有り難く貰い、カカシは自分の指先が震えている事に気付いた。
受け取ったグラスの中の水が揺れるのを目にし、たかが夢如きに情け無い気持ちになってしまう。
と、不意に横から出てきた無骨な手に支えられ、そのまま血の気の引いた自分の唇に誘導された。
カツンと硬質なガラスの感触。次いで口内に流れ込む水の冷たさ。
ひとくち、ふたくち。
咽を鳴らしてゆっくりと飲み込む水に、自分の乾きを自覚する。
支えた手が放れると同時に、貪るように流れ込む水を嚥下し、水が無くなって初めて唇を離して大きく息をついた。
「もっと要りますか?」
囁くような小さな声で尋ねるイルカの声に、力無く首を振る。
まだ夢の感触が四肢に残っているように思えて、カカシは項垂れ、小さく身震いした。
そっと掴んだままのグラスを抜き取られると、汗で額に張り付いた前髪を掻き上げられ、頭を大きな手で撫でられる。
「怖い夢、見ました?」
優しい仕草と穏やかな口調に、無意識にカカシは頷いてしまう。
子供をあやすように撫でられる感覚。でも優しいそれに縋り付きたいと思ってしまう。
そのまま眠りに就きたいとも思うのに、また先程の夢に囚われるのではないかという恐怖が残り、素直に目を閉じることが出来ない。
「大丈夫、俺が居ますから」
諭すような声と共に、ふわりと温かい体温が体を包んだ。
イルカがカカシを抱き込み、落ち着かせるように背中を叩く。
「もう少し眠りましょう? 大丈夫、悪い夢なら俺が追い払ってあげますから」
囁かれた言葉は、するりとカカシの耳に入り込み、素直に瞼が落ちてくる。
そんなカカシの様子を察知してか、イルカは抱き込んだ体を離さないまま、布団へと一緒に横たわり、器用に布団をかけてしまった。
狭い布団に二人分の体温。
そして、抱き込まれた胸から伝わる力強い鼓動に、どこか安心して眠りへと導かれた。
瞼を閉じる一瞬前、見上げたイルカの黒い目。
正確には、その目に浮かんだ慈しみの色を、昔どこかで見たことがあると、奇妙な既視感を覚えながら。
それから、黒と赤の夢は見ない── 。