イルカが請け負ったように、悪夢はなりを潜めたように見なくなった。
流石に抱き込まれて眠ったのはあの日だけで、翌朝の気恥ずかしさは今思い出すだけでも居た溜まれ無い気持ちになってしまう。
だって成人した大の男が、夢が強いからと抱かれて眠ったのだ。
恥ずかしい以外の何でもないと、カカシは思い出す度に口布と額宛の下で赤面した。
それでもあの温かさは忘れられず、日常でもイルカの姿を目で追ってしまう。
どうしてこの人はこんなにも温かいのだろうか。
腕に包まれた時、ほっと息がつけた。
冷え込む朝方、寝ぼけた視界に飛び込んで来た、イルカの穏やかな寝顔。
それに、胸に温かい気持ちが滲んだ。
モゾリと背後でヤナギが身動ぐ気配に、カカシが視線をそちらに向ければ、ぼんやりとした子供の無垢な目が、自分達を見ているのに気付いてしまう。
「ヤナギ…こっち来る?」
子供から親を横取りしてしまった罪悪感に、カカシは布団の端を持ち上げてヤナギを誘った。
こっくりと頷いた子供はもそもそと起きあがり、持ち上げられた布団の端から潜り込む。
冷気が僅かに入り込んだが、カカシは気にせずヤナギを自分とイルカの間に滑り込ませる。
少し冷えた子供の夜着に申し訳無さを感じて抱き込んでみれば、素直に擦り寄る姿に愛しさが溢れた。
まだ眠りの世界にいると思っていたイルカが、間に入り込んだヤナギの存在に苦笑を零す気配。
「もうちょっと温まってましょ?」
唆すように囁いて、挟んだ子を潰さぬ程度にイルカの背を引き寄せた。
狭い空間に3人が寄り添って眠る。
体も、心も、芯から温もる感じがした。
寝食が安定したせいか、ここの所頗る調子が良いと、カカシは自分の体を省みてみる。
食事もそうだが、カカシとて忍、食事面には出来る限り気を遣ってはいたのだが、最近の指先にまで血液が巡るような感覚は、上忍になって以降久しいものだった。
何よりも、時折不意打ちのように襲ってきた偏頭痛が、気付けば無くなっていたのだ。
やはり、睡眠なのかと、ひとり頷く。
ヤナギを挟んで眠る夜。
イルカの腕は感じられないけれど、同じ空間に居る安心感と、一度体験してしまった温もりを思い出し温かい気分のまま眠る事が出来た。
任務前後で精神に波が立ちそうな夜ですら、ヤナギを寝かしつけた後でイルカとふたり卓袱台を挟んで晩酌をし、他愛ない会話を交わして笑えるのが不思議だった。
何よりも、イルカの黒い目を眺めていると、何故だか心が凪いでいく気分になるのだ。
深く、心すら見透かされるような眼差し。だけども不快の欠片すら感じない。
そんな視線が、自分の記憶のどこかに引っ掛かる。
昔、そんな目を持った人間が居た。
この腕に抱き込んで、睦言すら囁いた。
だけども、甘い言葉は届かずに、カカシに心の安息をもたらしてくれた存在は忽然と消えてしまったのだ。
裏切られた、そんな想いが強かったのかもしれない。
だから記憶の奥底に封印し、沈めた。
イルカに近寄るまで、忘れようとした女の姿をカカシは今更ながらに思い出す。
黒く潤んだ瞳が印象的な女の姿を。
記憶の発端は、焦土にも似た任務地の光景。
その任務でのカカシの立場は、上忍だったのか暗部だったのかは曖昧で、自分の姿なりからどちらでも同じだろうと、記憶を探りながら笑った。
確か、大きな怪我をした。
腹に穴が開く程では無かったが、内臓を掠める位には深かったと思う。
動く度にぬかるむ腹部に舌打ちし、手持ちの布を巻き付けてきつく圧迫した。
そしてクナイを両手に、遠くに感じた次の獲物を屠りに跳躍しようとした瞬間、後ろから後頭部に衝撃が見舞われ、頭を抱えてその場に蹲ってしまった。
もの凄く痛かった。目から火花が出るかと思う程。
そして蹲ったと同時に、驚く。
確かに何の気配も感じなかった筈なのだ。
殺気立った空間、自分の領域。
そんな中で気配を感知させ無かった存在に、内心驚愕しつつも次にすべき行動を計算しようとした矢先、声が振って来た。
「馬鹿ですか、アナタ」
低く凛とした声。
呆れの音がありありと感じられるそれに、カカシは俯いた顔を上げた。
そこに居たのは、片手を腰に手を当て、仁王立ちになった黒髪の女。
侮蔑にも似た感情を黒い瞳に乗せ、眇めた視線でカカシを見下ろしている。
右手に拳が握られているのを見るに、どうにもカカシの後頭部を襲った凶器はそれらしい。
額宛の印は同里のそれで、カカシは咄嗟に攻撃しなかった自分を内心褒めた。
「そんな傷でドコへ行くつもりですか?」
わざとらしいゆっくりとした口調で問いかける女に、蹲ったままカカシは首を傾る。
こうしている間にも遠くからの気配は、着実に近付いているのだから、本来のカカシならば、女の言葉など一蹴し、飛び出しただろう。
だが、彼女の姿に毒気を抜かれ、カカシはつい素直に答えてしまう。
「え? 何か敵が近づいて来たみたいだから…」
ちらりと視線を動かせば、彼女はそちらに意識を向け、眉を顰めた。
そして、苛立たしさを隠さない舌打ちが聞こえた。
「そこに大人しく待ってて下さいね!」
言うなり、カカシの目の前から姿が消える。
その数秒後、近付いてきた気配が間を置かずに次々と消えて行くのを、カカシは蹲った状態のまま感じた。
口笛を吹きたくなる位の鮮やかさ。
時間にしてほんの数分。
目の前に戻ってきた女は、呼吸の乱れすら無くカカシを覗き込んできた。
「あ、ちゃんと待っててくれましたね」
彼女が言うと同時に、頭にふわりと手を伸ばされる。
良い子、とばかりに無防備に頭を撫でられ、カカシは思わず唖然としてしまった。
繊細さの欠片も感じられないその撫で方に、後頭部にあった痛みすら忘れてしまう。
「さ、傷を見ましょう…はい、バンザ〜イ」
つられて素直に両腕を上げる自分に気付いたのは、上げてしまってから。
彼女が、腹におざなりに巻かれた布を取り去るのを見て、上げてしまった両腕は、降ろすに降ろせない状態になってしまったのだ。
「…縫った方が良いですね、歩けますよね?」
傷口を眺めて眉を顰めて、彼女は再度きつく布をまき直す。そして先に立ち上がり手を差し伸べて来た。
その手の意味が判らずに、カカシはぼんやりとそれを眺める。
暫く眺め、ようやく意味を理解した時、改めて── 否、初めて女の容貌を確認した。
凡庸。
美人でもないが、醜くもない。
だが、黒く長い髪の毛を一括りに背に流し、水が張ったように潤む黒い目が凛としているのが、酷く印象的だった。
「営地に戻りましょう」
子供のように手を引かれ、カカシは大人しく女の言葉に従う。
ゆっくりとした歩調はカカシの傷を思っての事か、繋いだ手がとても温かいと感じた。
臨戦態勢のカカシに無防備に近寄る女。
面白いと、カカシは女の後ろを歩きながら笑ってしまう。
何故か憎めないのだ。後頭部を激しく殴打されたというのに、報復しようとは思わない。
でも、あれは痛かった。
この腹の傷よりも痛かったかもしれない。
「何、笑ってるんですか」
くるりと不信感も露わに女が振り返る。どうやら自分は声を出して笑っていたらしいと、カカシは自分の口元に手をやり、そこにいつもの口布の存在を思い出して、再び笑ってしまう。
「いや…腹の傷よりもアンタに殴られた頭の方が痛かったな〜なんて」
途端、女の顔色が変わった。
見る間に血の気が失せて青白く変化していくのを、カカシはもの珍しいものを見る気分で眺めていた…瞬間。
体が重力に逆らって浮き上がり、唐突に浮遊感に襲われた。
「ごめんなさいっ!」
言うや否や、もの凄い勢いで抱えられ、運ばれた。
写輪眼のカカシとあろうものが、女の細腕に抱えられて搬送される。
そんな不名誉な話題が営地を駆け抜けたのは、言うまでも無かった。
その後、カカシの傷は、女自らの手で責任を持って綺麗に縫われ、後頭部の打撲も冷やされた。
時折宥めるように髪を撫でる女の指先、それが酷く気持ちよくて、カカシは知らず彼女の存在を気にし始めた。
後方支援の為に送られてきた小隊の隊長だったらしく、部下らしい娘達に指示を飛ばす姿が見えた。
何かを問われて頭を唸りながらも、丁寧に仕事を教えていく。
時に大口を開けて豪快に笑っている様が、くの一としては凄く珍しいと目を釘付けにされた。
何をするにも豪快。それでいて仕事ぶりは丁寧で繊細。
部下を可愛がっているのも、遠目で伺える。
「何なんだろ〜ねぇ…?」
喜怒哀楽が激しそうな女の姿に、カカシは強く惹かれてしまった。
繋いだ手の温もりが、いまだに忘れられない。
今まで数多くの女達を相手にしてきた。同年代の人間より遙かに多い数をこなしたと、自慢では無いが自負できる。
それでも、あんなに温かい手を持った女も、子供を扱うように頭を撫でてくれた女は一人も居なかった。
何の打算も無く、カカシに触れた女。
それが自分を惹きつける要因だと気付かぬ侭に、カカシは激しく彼女へと傾倒していった。
「も、邪魔です!」
油断すればべったりと張り付くカカシに、女は辟易した様子で背後にまとわりつく睨め付ける。
それでもめげずに、女が隙を見せる度にへばり付き、女の関心を引こうとした。
確たる口説き文句も無く、ただ背後にまとわりつく。
まるで初めて見た存在を親と認識する雛鳥のように、暇を見付けてはカカシは女の後を追いかけ回した。
度重なるカカシの襲撃に女の方も慣れたのか、諦めたのか、カカシを構ってくれるようになったのが嬉しかった。
それでも男女の関係に進展する訳でも無く、ただ穏やかな雰囲気で二人の日々は流れて行ったのだ。
そんな関係が一気に崩れたのは、この任務地に来てから何度目か忘れた敵襲の後。
辺り一面が敵忍の死骸と血で埋まる程に命を屠ったその日、カカシは女を抱き締めて温もりを求めた。
猛った血が収まらない。
屠った命の数が、鉄錆臭い血臭が付きまとって離れないのだ。
女を抱き締めた手が震えているのが情けなかった。それでも縋り付いた温もりを離したくなくて、カカシは女にしがみつく。
閨を求めて応えてくれる存在では無いと、知っていたのに。
このまま引き裂いてしまいたい衝動が突き抜けるが、カカシは歯を食いしばって抱き締める腕の力を強めるだけに留める。
葛藤が頭の中で渦巻いていた。
と、そんな均衡を破ったのは、以外にも女の方だった。
呆れたような溜息が吐かれ、カカシの頭をポンポンと優しく叩いた。
そしてそのまま重心を後ろへと倒し、カカシに押し倒される形で二人で床へと沈んだ。
「ああ、もう! 絆されましたっ!」
耳元で喚かれた言葉を理解した途端、カカシは女を貪った。
唇を求めた段階で処理の意味合いを逸脱し、それを判ってか彼女は笑って応えてくれる。
何となく、触れてはいけないと思った体だった。
閨を求めては、女の優しく大らかな空気を失うと漠然と思いこんでいたのだ。
それでも一度許されてしまったからには、止める事など出来はしない。
カカシは女性特有のまろみのある体を求め、柔らかな胸の感触に初めて泣きたい気持ちを味わった。
背中に回る、華奢だが綺麗に筋肉の乗った腕。
求める事を許された。
ただそれだけで、酷く幸せな気持ちを味わったのだった。
絆されたと言った彼女の言葉は、決して嘘では無かった。
何故なら、カカシがそんなニュアンスを含めて見つめれば、決まって照れたように微笑んで口吻をくれるのだ。
抱き込めば一瞬強ばる反応。それは少し悲しいが、慣れていないのだと彼女が頬を赤らめる様が、美人じゃなくても可愛いとうっとりしてしまう。
いつの間にか同じ天幕で寝食を共にし、夜毎抱き込んで眠る存在に、優しい気持ちになれたのが不思議だった。
セックスはしなくとも、ただ唇を寄せて囁きを交わし、体温を感じて眠る。
ただそれだけで、満ちた気持ちが溢れるのだ。
どんなに血に塗れても、死体の山を築いても、彼女の黒い瞳を見つめれば、不思議と荒れた精神が凪いで来る。
オレンジの小さなランプが照らす天幕の中、組み敷いた女の瞳が潤みで揺れ、反射するランプの灯が、まるで夜の凪の海に浮かぶ漁り火のようだと感動した。
もしかしたら、そのまま口にしたかもしれない。
「まるで、夜の凪いだ海みたい…」
生理的な涙が滲む目尻に口付けて、そう囁いたような記憶が微かにある。
その瞬間、強く抱き締められた。
そして思った。
許されるのなら、里に帰る事が出来た暁には、この女を伴侶にしたいと。
思うというよりも、願い。
ずっと、腕の中に抱き締めていたいと、純粋に思ったのだ。
そしてその思いは裏切られる。
女の任務は半年を境に撤収し、里へと帰ってしまった。
カカシはそのまま残り、里に帰還する間もなく次の任務へと就く事を余儀なくされる。
時間にして1年と少し。
拝命し続けた数々の任務をこなして里へと帰還したカカシは、当然女を探した。
だが、女の姿は里には無く、報告書の類を手当たり次第に探っても、その存在すら見当たらなかったのだ。