何故今更…と、カカシは呻く。
思い出に、否、欠片すら忘れようと努めた、女の存在。
記憶の奥底に沈め込み、あれから様々な女を相手にして、体が覚えた彼女の感触を払拭しようと努めたのに。
ここ最近になって、初めて本気で惚れた女の存在が記憶の底から浮上してきてしまった。
カカシにとっては痛く、苦い記憶。
いくら若かったとは言えこの自分が、人生の伴侶とまで考えた女。
がさつとしか言いようの無い仕草で、酷く大らかで優しい存在。
腕に抱いただけで満たされた。
欠けた隙間が塞がったような感覚すら覚えた。
だけど女は居なくなった。そこに存在したという形跡すら残さずに。
人形めいたヤナギの姿に、どこか寂しさを覚える。
それでも時折、花が咲いたように笑う顔を見ると、胸がホワリと温かくなるのを感じた。
感情に乏しいとイルカから聞いてはいたが、それでも笑ったり泣いたりはしていたのだろう。
カカシが共に居る事に慣れてくれたらしく、ヤナギは感情の欠片を少しずつではあるが、カカシに見せ始めたのだ。
「この子、よく寝るねぇ」
「寝る子は育つって言いますし…もうちょっと育ってくれれば良いんですが」
「ヤナギ、ちっちゃいもんね…って、寝過ぎじゃないですか?」
「ふふ、そっくりなんですよね…」
イルカの横でうたた寝をしているヤナギの姿。
無防備な寝姿を晒す子供の頬を指先で突き、イルカが呟く。
そっくり? 何に?
決まっている。遺伝子の片割れにだ。
イルカの呟やいた言葉に、暫く痛まなかった胸がギリっと軋む感じがした。
慈しみの色を乗せた黒い瞳が、ヤナギを見つめながら違うものを思い出している。
「似てるんだ?」
「ええ、そっくりなんですよ、容姿は」
くすくすと笑うイルカの姿に、苛立ちすら覚えた。
そしてカカシはヤナギから視線を外し、あらぬ方向を見据えて食後の茶を啜る。
確かに、イルカに似ていないのなら、もう片親に似ているのが当たり前なのだ。
その事を突き付けられ、冷静な目でヤナギを見る事が出来ない。今は。
この子供を、嫌いたく無かったから。
そしてカカシは気付かない。
焦燥にも似た感情が、何故自分に宿っているのかを。
似ているというのだから、恐らく、否、確実に、ヤナギの母親の事だろう。
あの日イルカが呟いた言葉を、カカシは記憶から削除しようと決めた。
ヤナギ本人を可愛いと思っているのは、変えようもない事実だし、そんな事で子供を見る目を変えたくないと思ったから。
だって子供に罪は無い。
子供を構成する背景が気に入らないからと言って、子供本人まで嫌うのは間違っているとカカシは思う。
それはナルトを嫌う里人と、同質のものなのだから。
ここにイルカが居て、ヤナギが居る。
それだけの事実があれば良いと、カカシはひとり頷いた。
日々は穏やかに流れ、時たまA、Sランクの任務で里を離れる事はあれども、上忍師という立場の今、長くても一週間の任務を、カカシは安定した精神でこなしていた。
任務の最中は無心で過ごせるが、一端終了してしまうと、滲むように郷愁が沸き上がる。
早く帰りたい──。
里に帰ってイルカの部屋の戸を叩けば、おかえりなさいと迎えてくれる存在が2つ。
思い出しただけでも頬が緩み、知らず里への足が速まった。
なのに、これはどういう事だろう。
カカシはイルカ宅の前で立ち尽くす。
頭から足下まで、滴る程では無いが全身が染まる量の血を浴びた状態で、呆然と佇むしかなかった。
任務完遂まで、返り血のひとつも、それこそ染みの一点すら無い状態で居られたのに、何故、自分は血塗れなのだろうと。
「馬鹿がいたから…」
里への期間中に唐突に襲ってきた馬鹿が数人。
抜け忍の集まりらしいそれらは、カカシが「写輪眼」だと判るや否や闇雲に攻撃を仕掛けて来たのだ。
思わず舌打ちをした。
これから温かい場所に帰るというのに、とんだ邪魔が入ったと。
疲れてはいたが無視する訳にも行かず、相手をした。
油断したつもりも無かったが、咄嗟の攻撃をかわすのに手元にあった切り捨てた死体を引掴み、盾にしたのがそもそもの間違いで。
「頭っから、浴びちゃったよ…」
視界に広かった赤、そして鉄錆の匂いにまた舌打ち。
何となくとは言え、血を浴びたく無い気分だったから、それなりに気を遣って任務を遂行し終わったと言うのにこの仕打ち。
カカシは苛立ちがてら、木の葉の額宛に線を引いたものを着用した抜け忍を、視界に収めると同時に、叩き伏せ、拘束し、生きたまま里へと引きずって帰ったのだ。
文字通り、正しく引きずって。
多少力は要したが、少しは鬱憤が晴れたのは確かだった。
カカシが跳躍したり、道の大きな岩を避けたりする毎に上がる呻きに、溜飲を下げた。
ささやかな気晴らしだ、尋問部へ引き渡した時には、誰だか判らない位に顔が変形していたが、知ったこっちゃ無いと、カカシは嘯く。
そして今になって初めて、何となく自分が思っていた「血を浴びたくなかった」理由を理解し、途方に暮れているのだ。
イルカの部屋の扉を叩こうとした手が、途中で止まる。
上から下まで真っ赤に染まった存在。
そんな自分がこの温かい空間に入って良いのか、戸惑ったのだ。
もう何分、何十分とこの状態が続いただろうか。カカシは諦めの溜息をついて、俯く。
踵を返し、今日はほったらかしの自宅へと帰ろうとした瞬間だった。
唐突に、中から扉が開いたのだ。
そして、どこか怒ったような表情のイルカが、こちらを睨み付けているのが見えた。
「…イル…」
「何、ウロウロしてんですか!? 入るならさっさと入って来なさい!」
有無を言わせぬイルカの声に、カカシは肩越し振り返った体勢で硬直してしまう。
じっと見つめるイルカの黒い目が、真っ直ぐに自分を見つめる。
その視線が酷く怖くて、動けないのだ。
そんなカカシをどう思ったのか、イルカは大きく呆れを感じさせる溜息を吐き、無造作にカカシの腕を掴む。
「え?」
「何を躊躇ってるんですか、良いからさっさと入って来なさい」
ぐいぐいと部屋の中へ引っ張られ、カカシはされるがままに中へと足を踏み入れる。
玄関の扉が閉まれば、狭いコンクリート敷きの上がり口、向き合う格好でイルカを見下ろせば、厳しい表情で自分を睨み付けているのが見えた。
やはり全身血塗れでの訪問は拙かったかと思い俯こうとした時、タイミングを計ったかのように額宛が奪われ、口布も下げられ、更にベストのジッパーが無断で降ろされて、アンダーを捲り上げられた。
イルカの行動に呆気に取られ、思わず呆然とした面もちで眺めていれば、今度は素肌をまさぐられ、擽ったさに身を捩った。
「…怪我はしてないんですね…」
ほっと安堵の吐息が、晒された腹の辺りに触れる。
心配させてしまったらしい、自分は。
全身を真っ赤に染めて帰って来た人間だ。普通、真っ先に怪我の心配をするだとうと、カカシは思い当たって苦笑する。
「怪我はしてないです…これは全部返り血です」
そう申請すれば、途端にイルカの視線が緩んだ。
擽ったいと感じた。誰かに── イルカに心配して貰うなんて。
今まで誰も、そんな事はしてくれなかった。
血で染まって帰って来ても、怪我の心配よりも任務の遂行の有無が優先で、誰もカカシが怪我を負ったか否かは問いはしなかったから。
「良かった…」
「心配してくれたんだ?」
「当たり前ですよ…あんな格好で帰ってくれば」
「うん、ごめ〜んね。ありがとう」
浴びた血が乾き、アチコチが引きつって気持ち悪い。
それでもこの空間は気持ち良い。
知らず頬が緩んでしまい、カカシはイルカの視線が怖いと思った自分を恥じた。
イルカとて忍だ。
何を勘違いしていたのだろうか、自分は。彼だって血に塗れた過去はあるだろうに。
イルカが作り出す空間があまりにも温かいから、血臭は彼から縁遠いものだと勝手に思いこんでいたのだ。その思いこみはイルカを侮辱していると、カカシは考えを改める。
そして同時に感謝した。
イルカは自分を恐れない。
自分と同質の存在である事実に。
「お疲れさまでした。それから、お帰りなさい」
そう言って笑ってくれる存在の尊さ。
知らず、カカシは目の前のイルカの体を抱き込み、強く抱き締める。
日常空間に帰って来た感覚。
触れた場所から温かさがじわりと広がるようなそれ。
「ただいま」
腕に抱き込んだイルカの体温。
服越しに伝わる温かさに嬉しさが込み上げ、浸っていたら、血で固まった髪を解すように頭を撫でられる。
一見乱暴にも見えるその手が、ひどく優しいものなのだと知り、イルカのこの手を普通に与えられる子供達が、酷く羨ましいと思ってしまった。
「温まりましたか?」
「すみません…オレがのせいでイルカ先生まで汚れちゃって…」
仄かに湯気を纏ったイルカの姿に、カカシは申し訳なさを感じて居た溜まれ無くなってしまう。
カカシが抱き付いてしまったせいで、服や布地に染み込んだ乾ききらない血が、イルカにもベッタリと付着してしまったのだ。
先にカカシを風呂場に放り込み、交代でイルカが湯浴みをし、ひと心地ついた今、まるで日常の続きのような雰囲気で卓袱台を挟んで座っていた。
「構いませんよ、これくらい」
「でも」
「そろそろ寒いですから、温かく眠れて良いじゃないですか」
恐らくイルカにとっては大した事では無いのだろう。
いつも通りに鷹揚に笑い、カカシへと透明な液体の張った湯飲みを差し出す。
何気なしに受け取り口を寄せれば、それは酒だった。
「ちょっと、呑みましょう、ヤナギは寝てますから、大丈夫」
「うん…いただきます」
悪戯っぽく一升瓶を掲げられ、イルカの気遣いを嬉しく思った。
男っぽく、無骨だけど温かい。
一口含んだ酒は、まるで甘露の味がした。
「オレもね、頑張って返り血浴びないようにしてたんですよ〜、なのにアイツラが…」
「その抜け忍は…?」
「イビキのトコに放り投げて来ました〜」
「…わざわざ引きずって帰ってきたんですか、アナタ」
「だって…それくらいの腹いせしたって許されると思いません?」
「まぁ、顔が変形した所で、掌・指紋も歯形もあるでしょうし、最悪網膜が残ってればOKかと」
「でしょ?」
お互いの湯飲みに交互で酒を継ぎ足しつつ、和やかな雰囲気で交わすのは、何とも不穏な会話。
任務とは別の位置で起きた今回の出来事を、掻い摘んでイルカに放せば、災難でしたねと労いとも哀れみともつかない返答を返され、カカシは苦笑する。
そこから始まった、まるで連想ゲームのような会話に、話の内容は二転三転し、挙げ句全く関係ない話題に繋がって、最初に戻って首を傾げる。
会話をしながらも着実に一升瓶の酒は減り、杯を重ねる毎に潤むイルカの目が見ていて楽しいと、カカシは思った。
さほど酒に強くは無いのを伺わせる、トロリとした黒い目。
そこに自分が映っているのを確認した瞬間、カカシの心臓が顕著に跳ねた。
知らず、イルカの手首を掴んでいた。
引き寄せられるように顔を近づければ、ゆるりと閉じられる瞼。
そして、重なる唇。
「…ごめんなさい」
重ねただけの口吻が離れると共に、カカシは呟くような謝罪の言葉を口にした。
掴んだままのイルカの手首。
放さなければいけないと判っているのに、指が固まってしまったかのように動かない。
そんなカカシを見上げるイルカの黒い瞳。
不意にその潤む目が柔らかく緩み、謝罪を口にしたカカシの唇を咎めるように、そっと指先が宛てられる。
「謝らないでください」
静かな声だった。
そこから先に続く行為すら受け止める覚悟を持った、否、促しすらしている視線に、カカシは流されそうになる自分を抑えようと口を開く。
「でも、オレ…」
「良いんですよ」
イルカ囁きは優しく優しく、カカシの耳朶を擽り、鼓膜を震わせる。
掴んだ手首の意外な細さに、ここから先を強要するのを踏みとどまってしまうのだ。
何よりも、カカシは失いたくなかった。
イルカの作り出す、温かな雰囲気と関係を。
「でも…っ…」
「も、黙って…」
言い募ろうとするカカシの唇を、イルカは伸び上がってキスで塞いでしまう。
ちゅっと小さな音を立てて施された口吻。
そしてじっとカカシを見つめる潤んだ瞳。
もう駄目だと思った。
止まれない。
離れた隙間を今度はカカシから求めて詰め、再び唇が重なれば、いかに自分が温もりに植えていたか知らされた。
自然と背中に回されたイルカの腕に、泣きそうな気持ちを味わいながらも、傷だらけの肌をまさぐる。
卓袱台の横で唐突に始まった情事。
煌々と安っぽい蛍光灯が照らす中、決して女っぽくない、むしろ引き締まった男の体を持つイルカの裸体を眺め、それで欲は萎えずにカカシを突き動かす。
男の体だと判っているのに止められない。
どうしても欲しい。
これは渇望。
埋め込んだ場所の狭さと熱さに興奮し、思考が白に染まってしまう。
痛みに呻きを漏らしながらも、拒絶も抵抗も見せないイルカに甘やかされ、カカシは差し出された体を貪った。
顰められた眉、苦痛に撓む体、声を押し殺す姿。
それら全てに煽られる自分。
男を受け入れるのは初めてらしいイルカを散々に食らい尽くし、きつい締め付けに耐えきれず、胎に放った瞬間。
頭にあったのは独占欲。
イルカを、自分以外の誰にも触れさせたくないという、剥き出しの感情だけだった。
彼は自分のものでは無いというのに── 。
その夜から、カカシとイルカの関係は微妙に変化した。
一度重ねてしまった体は、その味を覚え忘れられなくなってしまったのだ。
任務の有無に関係無く、カカシが求めればイルカはそれに必ず応じ、許容した。
抱き合って情を交わす時、背中に腕を回し、抱き寄せてくれるのが酷く嬉しく、カカシは前からの交合を好んだ。
背中にある腕の存在、極まる瞬間に立てられる爪。
その痛みすら甘く感じる自分に、溺れていると想いながら。
何よりも、組み敷いたイルカを真上から見下ろした時、濡れた瞳が自分を映しているのが嬉しいのだ。
「…ぁん…」
噛み損ねた声を零し、イルカが体を捩る。
零してしまった声を恥じたのか、横で眠るヤナギを気遣ってか、イルカは唇を強く噛み締めた上で、自分の唇を手で覆ってしまう。
そんな頑なな態度も好ましく、カカシは意地悪く腰を強く打ち付ける。
「んんっ…!!」
見開いた目に浮かぶのは快楽の涙。
繰り返し繰り返しカカシと体を重ねたせいか、イルカの硬かった体は綻ぶように開花し、カカシに組み敷かれながらも快楽を拾えるようにまでなってしまった。
ギチギチときつい肉の輪も、今は穿つカカシの形にはしたなく広がり、収縮を繰り返す。
多少の苦痛は付きまとっているようだが、快楽の度合いの方が高いように見える。
「声、どうして殺すの…?」
正面から腰を打ち付け、カカシはイルカの耳朶に囁く。
動く度にグチャグチャと音が立つ結合部に指を這わせ、自分を咥え込んでいるイルカの肉を擽るようになぞった。
途端、イルカの腹筋が撓み、カカシの口元が弧を描く。
「結界張ってるから、声も音も、ヤナギには聞こえないのに」
「…ぅ、ん…っ」
「恥ずかしい?」
「あ、ぁん…は、や、め…」
赤く染まる眦にキスを落とせば、結合が深くなりイルカが唇を噛み締めて仰け反る。
シーツに散った黒髪。
額に張り付いた前髪を掻き上げ、カカシはそこにも口付ける。
抱えたイルカの膝を高く掲げて大きく広げれば、羞恥ともたらされる感覚に、カカシを受け入れた肉が締まった。
「…っ」
「は、ぅ…も、終わ、って…」
紅潮した顔をそのままに、イルカがカカシの頬を引き寄せキスを強請る。
強請られたまま口吻を与え、カカシは終わりを目指して腰を蠢かす。
濡れた粘着質な音と、肉を打ち付ける音。
重なる唇の合間から零れる、興奮を隠せない2人分の吐息。
「は…」
「…ぁ、あ…熱ぅ…ぃ…っ…」
胎に叩き付けた飛沫の感触に、イルカの肌が戦慄く。
息を吐いて腰を引けば、途端にドロリと零れる白濁。カカシはその量を眺め、自分に呆れた。
十代の子供じゃあるまいしと。
まるでマーキングするかのように、常に胎に注がれるカカシの精液。
イルカはそれを咎めず、最初の夜からただ受け止めた。
反応や体の反射を見れば、同性との経験は皆無だと知れるのに、イルカは何故カカシの好きにさせるのだろうと、不意に思う。
だがそれは判らない。
聞いてはいけないような気がしたから。
だからカカシは、ただ溺れる。
イルカという存在そのものに。
空間、雰囲気、体。
差し出されたそれらはカカシという異物の侵入を許し、甘やかす。
知らぬ間に、離れられない場所にまで来てしまった。
今まで感じた胸の軋み。
イルカがヤナギの母親らしき人物を語る時に、必ず訪れた胸の痛み。
そしてカカシに芽生えた、決定的な独占欲。
ああ、この感情に名前をつけるなら── 。
そこまで答えが出ながら、カカシはその感情を秘める。
腕に抱いた汗ばんだ肌に頬を寄せ、その体温に浸りながらも、怖いと思ったから。
失うのが、怖いと。
それでも乱れた息を吐くイルカを上から見下ろせば、カーテンの隙間から入り込む外の街頭の光が、潤む黒目に反射して綺麗だと場違いな事に感動した。
ゆらりゆらりと揺れる灯火。
「ああ…まるで夜の凪いだ海みたい…」
意図もせず、無意識にそんな事を呟けば、イルカが泣きそうな顔で綺麗に微笑んだ。
そのまま強く抱き締められ、冷えはじめた肌が密着した。
イルカがどうしてそんな顔をするのか判らず、今は目の前の体温を噛み締める事が精一杯だった。
…しつこい…(涙)
連載していて何が心配かって、
読んでいる方々が引かないかが、
一番心配ですよ、私。