求めれば無条件で差し出される温もり。
触れれば少し困ったように笑い、そっと頬や頭を撫でてくれる手が、酷く温かかった。
視線に色を含めれば、ほんの少しの戸惑いに僅かに瞼を伏し、視線を逸らせる。
だが、拒絶の反応は見た事は無かった。
頬に唇を寄せれば自然と瞼は落とされ、薄く開いた唇に口付ければ、熱い舌が迎えてくれる。
ヤナギが寝入った後に交わされる、秘密めいた口吻。
布団が敷かれた部屋とを仕切るのは、頼りなく古い襖一枚。
煌々とした蛍光灯の下、卓袱台の横で交わすキスは、何とも現実を知らしめる。
日常的なものがそこかしこに見られる茶の間で耽る、淫猥な行為。
抱き締めた体は男のもので、それで萎えない自分に自嘲する。
溺れてしまった。
もう離れる事も、手放す事も出来はしないとカカシは思う。
だって、一人で過ごす時間の寂しさを、忘れ初めていたのだから。
抱いた感情に名前がついてしまった。
それは意外にもストンとカカシの中に納まり、疑問すら抱く間もなく馴染んでしまった。
この年になって、恋とか愛とか。口にするにも憚られる。
それに、そんな言葉で片付けたくない何かが、その感情の底辺に流れているような気がしたのだ。
イルカが自分をどう思っているのは知らない。
潤む黒い瞳を見ている限り、カカシとの関係を厭わしく思っていないのは確かなのだが、何故ここまで自分を受け入れるのかは謎のままだった。
体を重ねる回数が増え、知らず自然に日常にもそれが現れる。
ヤナギを膝に抱えたまま、隣に座るイルカを見つめればそっとキスが帰ってくる。
あまりにも自然に施されるそれに嬉しくなり、カカシからもキスを返せば、膝上からじっと見つめる視線が痛い。
「どうした、ヤナギ?」
親を盗られた気分なのだろうかと、カカシはできるだけ優しくヤナギの髪を梳き、青灰の瞳を覗き込んで尋ねる。
大きな目に映る自分の表情に、内心驚きながら。
こんな顔をしているとは思わなかった。こんな愛おしむように優しい顔を。
自分に子供が居たなら、きっとこんな顔を周りにも晒していたかもしれないと、有り得ない事を考えていた時だった。
頭を撫でられていたヤナギの腕が唐突に伸び、カカシの顔を固定する。
そして唇に、ふにゃりと柔らかい感触が訪れた。
「…へ?」
思わず目を瞠ったままで反応出来ずにいれば、膝上の子供は今度はイルカへと手を伸ばす。
事を眺めていたイルカは、焦りもせずに苦笑して顔をヤナギへと差し出した。
そして、キス。
ちゅっと可愛らしい音がして、親子の唇が離れるのを、カカシは呆然と眺める。
「仲間外れにされたと思ったんですよ、こいつ」
クシャクシャとイルカがヤナギの頭を撫でれば、嬉しそうに目を眇める子供の顔が見えた。
唇に残る、イルカのものとは違う感触を、カカシは擽ったい気分で噛み締める。
嬉しいと純粋に思ってしまった。
自分と、イルカとに平等に与えられた子供からの小さなキス。
それは宝物のように、カカシの中に大事に仕舞われる事となった。
イルカだけでなくヤナギからも、ここに居て良いのだと許された気がしたのだ。
不思議な事に満たされた気分が続くと、イルカと体を重ねる回数が減った。
ただ手を繋いだり、体の一部が触れてたりするだけでも、満足する自分が居るのだ。
雪が降る季節が訪れ、火を落とした寒い空間。
狭い布団に3人で寄り添って眠るのが、当たり前と化した冬の夜。
カカシは初めて寒さに感謝を捧げた。
寒いから、この幸せがあるのだ。
横向きで眠る向こうにはイルカの穏やかな寝顔、そして視線を心持ち下げれば、幼い子供の寝息が、大人達の胸元に健やかに小さく響く。
「…ダブルの布団、買おうかなぁ?」
「………無駄遣いは感心しませんよ」
「あ、起きてたの?」
「何ですか、ダブルの布団って…」
「狭いのも寄り添えて楽しいんだけど、明け方あらぬ方向に飛び出てるイルカ先生を見ると、オレ、申し訳無くて」
「悪かったですね、寝相悪くて! カカシ先生こそ、自分の布団で寝れば良いじゃ無いですか!」
「い〜やですよ。この温かさを知っちゃうと、一人寝なんてできません」
「…そうかもしれませんねぇ…うん、温かい」
「温かい気分で眠れるってのは、幸せですね」
思わずぽつりと呟けば、イルカの腕が背に回る感触。
お互いの間に挟まるヤナギを潰さない程度に近付いた間隔に、知らず唇に笑みが浮かんでしまう。
「もう寝ましょうよ、カカシ先生」
「うん…おやすみ…」
首を伸ばして、イルカの額にキスをする。
触れた感触で、イルカの眉が困ったように下がるのが判った。
だからそのまま角度を下げ、イルカの唇にも触れるだけのキスをすれば、小さく彼が笑う気配がした。
その事に満足し、カカシは瞼をゆっくりと降ろす。
すぐに眠りの細波が打ち寄せ、間を置かずに攫われ深く沈む。
寒く乾燥した空間に、3人分の寝息が零れた。
「あれ、珍しい…イルカ先生、任務なんだ?」
夜半過ぎにゴソゴソと荷物を改め始めるイルカの姿に、カカシは思わず目を瞠った。
イルカ宅に居着いてから初めて見る光景。
さして荷物が大きくは無いのを見取り、日付越えから3日程度のものだと素早く伺う。
そしてホッと息をついた。
イルカの不在が、長い期間では無い事に。
「ええ、滅多に回って来ないんですけどね、今回は緊急で頼まれてしまって…」
「…アナタ、夜勤で初めて会った時もそんな事言ってませんでした?」
「え、そうでした?」
「もう…お人好しなんだから」
「そんな事無いですよ」
「しょうが無いか、イルカ先生だもんね」
「何ですか、その納得の仕方は」
小さく憤慨するイルカの姿に、カカシは溜息をつく。
イルカがお人好しなのは確かだと、確信しているから。
だって、そうじゃないと自分はここに居ないだろう。
イルカの家に、当然のように。
「どれ位の期間ですか?」
「予定では3日程度の日程です…申し訳無いんですが、ヤナギの事、お願いしても構いませんか?」
「全然、オッケーです!」
明日の朝から里を発つと言うイルカを名残惜しいと思いながらも、たった3日だと自分を叱咤する。
先にヤナギが眠る布団に、子供を間に挟んで横たわり、寝るともなしに布団を被った。
明日から、ほんの少しのお別れ。
この温かさも1人分減ってしまうのかと、カカシはその数日を考え、酷く寂しく感じた。
せめてイルカの感触を触り溜めしておこうと、不埒な意味を込めずにそちらへと手を伸ばせば、同じように伸ばされた指先がぶつかった。
同じ思いを持ってくれているのだと感じて、それが凄く嬉しい。
どちらとも無く肘を付いて上体を起こせば、当然のように重ねられる唇。
重ねて、吸って、舐めて。
ほんの少しの別れだというのに、覚えておかなければと焦りが沸き上がる。
「…ふっ…」
「ん…」
濡れた音を立てて離れる唇。舌先が置き去りにされて、軽く開いたイルカの唇の合間から覗く様が、腰に来る位に淫猥。
それでも欲はそれ以上は湧く事は無く、ただお互いの指を絡めて手を繋いだ。
再び触れ合う唇に、吐息の感触すら刻み込む。
「何だろう…たった3日って判ってるのに、凄く離れがたいです」
「俺も…そう感じてますよ…」
「嬉しい…ね、無事に帰って来て」
「大丈夫ですよ、アナタみたいに過酷な任務が回ってきた訳じゃあ無いんですから」
「それでも、ね…やっぱり、心配」
少し厚めの唇を食むように吸えば、苦笑する気配が伝わった。
照明を落とした部屋の中、外の街灯の灯りが漏れ入る。
濡れたように潤みを持つイルカの黒目が、自分を映して揺れる様が、カカシは凄く好きだった。
「行ってらっしゃい、イルカ先生…気をつけて」
「何か不思議ですね、自分がアナタそう言われる立場になると」
もう一度だけ唇を寄せ、指は絡めたままで布団に潜る。
ヤナギの上で重なる指と指。
隙間無く詰められた温かな空間を、カカシは惜しみながら堪能した。
朝、イルカは里を出た。
珍しくシャッキリと目覚めたカカシに、大門まで見送られ、カカシに抱えられたヤナギの頭をひと撫でして。
イルカの経歴を目にした事はある。
中忍にしておくには勿体無い位の戦歴が書き込まれたそれを。
短期間で済むものでもランクの高い任務の記録は確かにあった。
だが、戦場の経験は4〜5年前を境に綺麗に止まっていた。
恐らく、ヤナギの誕生から。
判りやすい理由に、それ以上を探る気にはなれず、カカシはその経歴書からそっと目を反らしたのを覚えている。
「さ、今日から2人っきりだな」
「…うん」
「とりあえず、今日は7班と一緒に過ごすか」
凍えた風が吹きすさぶ大門の前。
自然とカカシは腕に抱いたヤナギを、寒風から守るように胸元に庇う。
それは親が自覚無しにする仕草。
カカシは知らず、それを実践する。
子供なんて持った事も無いのに。
「寒くないか?」
「だいじょぶ…」
舌っ足らずな口調に、眦が下がってしまうのが否めず、カカシはヤナギを心持ち強く抱き締める。
今日から3日間。7班は上司の都合により、里内かつ屋内の任務が振り分けられるのは必至だった。
首にしがみつく幼い腕と、冬の空気に靄のように上がる白い吐息。
密着した体温が、如実に感じられる朝だった。
お待ち合わせに遅れもせずに来た事よりも、カカシの腕にヤナギが居る事に驚く部下の姿に、カカシは何か腑に落ちないものを感じつつも、ヤナギを片時も放さなかった。
移動中は腕に抱える、もしくは手を繋ぎ、任務の監督中は常に体のどこかにヤナギを張り付かせて。
それは胸だったり、背中だったり、仁王立ちした足だったり。
日中を外で共に過ごすのは初めてだったが、躊躇い無く自分にへばり付く子供に、カカシは意外な気持ちを隠せず、それでも厭わしいとは全く感じず、好きにさせていた。
猿の親子みたい。
サクラが笑いながら零した言葉に、それはあんまりだと返しながらも、悪い気はしなかった。
その日だけで、カカシがにわか子持ちになったという噂は、里中に広がる。
面白がって様子を見に来た上忍仲間や、遠巻きに自分の様子を探る顔すら知らない存在。
話しかけてきた知り合いにはそれなりに返事を返したが、遠巻きに見る連中にまで意識を巡らすのも億劫で、カカシはそれらを綺麗に無視した。
ヤナギを腕に隠すように抱き込み、俯き気味で尋ねる内容は、この上無く所帯じみたものだったが。
「晩ご飯どうしよっか〜?」
首を傾げてきょとんと見返す、大きな目。
思わず頭を撫でたくなる愛らしさに、カカシの頬が緩んだ。
「ヤナギは何が食べたい?」
いつもはイルカに頼りっきりではあるが、カカシとて一人暮らしの長い人間である。
一応一通り家事はこなせるのだと、子供に胸を張りたい気持ちも僅かにあった。
イルカに比べれば、数段劣るだろうが。
「…ごはん?」
「うん、ごはんとオカズね」
言われてじっと考えるヤナギ。
小さな頭に巡っているであろう、過去イルカが作ったレパートリーの数々を思い、カカシはそれが難しいもので無い事を祈る。
「かぼちゃ、食べたい…甘い煮たやつ」
「渋い選択だぁねぇ…ん、了解。頑張ります!」
さすがにそれ一品という訳には行かないだろうと、カカシはみそ汁の具材を頭に浮かべる。
首にヤナギを張り付かせた状態で、道すがら八百屋で南瓜を丸ごと仕入れれば、子供の目が嬉しそうに輝くのが嬉しかった。
右腕にヤナギ、左手には南瓜。
里屈指の上忍の所帯じみた姿に、目を丸くした人間は少なくない。
そんな事は、疑似親子体験を満喫しているカカシには、知った事では無かったのだから。
3日。たった3日がこんなに長いと感じたのは初めてだった。
自分が送り出される側の人間だと、無意識に思っていたせいだろうか、待つ立場がこんなにも辛いと感じるのは。
任期はあくまでも過去の統計から弾き出した予定であり、未定なのだ。
あと数時間で予定の3日目の日付が越え、4日目に突入してしまう。
カカシはウトウトするヤナギを膝に乗せたまま、イルカ宅の茶の間で時計の針を眺め続けていた。
卓袱台の上には、既に冷め切った茶が入った湯飲み。
「イルカ先生、おそ〜い…」
数日、下手をすれば月単位での期間の延長など、日常茶飯事な世界に身を置く自分の言葉とは思えないと、カカシは自分の呟きに自嘲する。
待つ立場は慣れていない。
カカシが任務で居ない時、イルカはこの感覚を味わっているのだろうか。
だとしたら、イルカは強い。精神的に。
任務をしている最中は、遂行する事だけが思考を占め、他を考える事はあまり無い。
だが、逆の立場になった今、様々な事が脳裏に浮かび、不安がどうしても付きまとう。
イルカなら大丈夫。
そう、不吉な方向に走る思考を、何度押し止めただろうか。
腕に囲ったヤナギの存在が、随分とカカシを助けてくれた。
落ち込みそうになる思考に歯止めをかける絶妙なタイミングで、見上げて来たり、すり寄って来たりとしてくれたのだ。
くしゃりと頭を撫でれば子供特有の柔らかい髪の感触に、沸き上がる不安が宥められる。
子供の体温に浸ろうかと、抱いた腕に力を込めようとした時だった。
「!?」
急にヤナギが閉じかけていた瞼を見開き、弾かれたように身を起こしたのだ。
眠りの入り口を彷徨っていた筈のヤナギ。
あまりの唐突さにカカシは驚きながらも、その様子を伺った。
「…え、ちょっと!?」
微睡みの様子を払拭し、ヤナギは立ち上がりドアへと駆け出す。
突然の子供の行動に呆然としかけるが、カカシはその後を追う為に立ち上がる。
誰かが来た気配の無いドア。
それを体当たりするように空けて、ヤナギは飛び出す。
ドアの向こうは白い世界と、凍える温度。
それでもヤナギは躊躇する事無く、裸足で外へと飛び出して全力で走る。
小さな足跡が、薄く雪の積もった白い路面に痛々しく残る。
カカシはすぐに追い付き、子供の体を下から掬い上げるように抱き上げた。
ほんの少し外を走っただけで冷えた空気を纏う体を抱き締め、裸足の足にぎょっとする。
雪の中を裸足で駆けたそれは、冷えて赤く染まっていた。
「ちょ、っと、どうしたの、一体?」
「…が、イルカ…がッ!!」
カカシの腕に抱かれながらも、ヤナギは向かっていた方向へと体を捩り、手を伸ばす。
尋常では無いヤナギの様子と、口に上ったイルカの名前に、カカシは嫌なものを感じた。
先程まで考えていた悪い予感が思考を占めるが、腕の中で暴れるヤナギの存在に我に返る。
知らず無意識に、胸のホルダーから口寄せの巻物を片手に落とし、雪の路面に降ろすのが忍びずヤナギを背中に移動させた。
そんなカカシの態度から何かを感じ取ったのか、ヤナギは暴れるのを止めて大人しく背中から、カカシの首へとしがみつく。
「イルカ先生を捜そうね」
呼び出した忍犬にイルカ捜索を言いつけ、カカシはヤナギを背負ってイルカ宅へと一端戻る。
自分だって駆け出したい。
だけど、闇雲に走り回っても探す事は出来ないだろう。
でもヤナギが居る。
どうやら、この子供はイルカの何かを感じて走り出したらしい。
ならば連れて行こうと思うが、裸足のままではイルカが無事だった時に、心配させてしまう。
「きちんと温かくして、イルカ先生を迎えに行こう」
「…一緒に?」
「うん、一緒にね」
その言葉で安心したのか、ヤナギはギュっとカカシにしがみつく。
忍犬とヤナギ。
はたして先にイルカを見付けるのはどちらだろうと、不安に押しつぶされそうな胸を、カカシはそう考えて誤魔化した。
ダリダリと進んで無いように見えて進んでます。多分。
南瓜は、私が食べたかっただけ〜。
そしてこの話、楽しいのは書いてる私だけのような気がします。
ヤナギがイマイチ話さないのは、どう呼ばせるか悩み、
いっそ無しの方が楽と、私が切り捨てたからです。