救命処置室の煌々とした灯りが、今は見るのも辛い。
落ち着けと命じる脳に反し、心臓が痛い位に走ってしまう。
照明の落とされた暗い廊下とを仕切るのは、透明なビニールのカーテン。その向こうで忙しなく立ち回る医療忍や看護士達の姿。
彼らが動く度に垣間見えるイルカの姿に、足が震えてしまう。
体のあちこちから繋がるチューブや、床に落無造作に落とされた真っ赤なガーゼ、同色に染まる彼らの手。
腹腔に溜まった血液を取り除く吸引音が響く度に、耳を塞ぎたくなった。
萎えた足に、小さな温もりがしがみつく。
「…ヤナギ」
じっと透明なビニールを見つめ、瞬きすらしない、否、出来ない子供の姿に、カカシはやっと我に返った。
イルカの姿を見て、不安に陥ったのは自分だけでは無いのだと、今更ながらに気付いたのだ。
恐怖に震える指先を叱咤し、カカシはヤナギに手を伸ばし、頭を撫でる。
途端、自分の足に縋る力が強まった。
「おいで」
屈んで両手を差し出せば、腕の中に収まってしまう小ささ。
首に回された細い腕は明らかに震え、抱き込んだ体温はいつもよりも低い。
自分よりもこのこの子の方が、恐怖と戦っているのだと、カカシはヤナギを抱えたまま、処置室の前に設置されたベンチへと腰を下ろした。
その間も医療従事者の荒れた声や、器具類の音は止む事は無く、暗い廊下で2人の耳を責める。
カカシはヤナギの耳を両手で塞ぎ、額と額を合わせてヤナギの意識を自分へと向けさせる。
見上げる青灰の瞳に、涙の膜が張っているのを見付け、無意識でその眦に口付けた。
「…だいじょ…ぶ…?」
掠れた声が伝えるのは、イルカの容態。
幼い子供には酷く衝撃的な光景だっただろう。親が血塗れで横たわる姿は。
きっとこの子供の頭の中には、見付けた時の映像が繰り返し繰り返し浮かんでいるに違いないと、カカシはヤナギの耳を塞いでいた手を小さな背に回し、自分の胸に抱き込む。
「大丈夫。イルカ先生は、絶対大丈夫」
何の根拠も無い、自分にも言い聞かす為の言葉を、ヤナギの背を叩きながらカカシは繰り返す。
ぎゅっと胸にしがみつく子供の存在に、今、ここにこの子がいる事に感謝した。
大人が守るべき存在。
子供がいる限り、自分は何とか冷静でいられると、カカシは抱き締める手に力を込めた。
「あ…」
唐突にヤナギがカカシの胸から顔を上げれば、ビニールのカーテンが捲られ、術衣を脱ぎながら医療忍が出てくる。
処置室からの逆光で、その表情は判らない。
大きく息をつく仕草をひとつ。そして2人の座るベンチへとやって来るのを、カカシはぼんやりと見つめた。
「とりあえず、持ち直しましたよ」
告げられても、一瞬理解できなかった。
呆然としたカカシの面持ちに医療忍は苦笑し、再度ゆっくりとイルカの状態を説明してくれた。
出血の多さで危なかったが、持ち直し、意識が回復したから大丈夫だと。
「傷も塞ぎましたので、病室に移せます…ちょっとなら話しても大丈夫ですよ」
笑いながらカカシの肩を叩く医療忍の顔を、いまだぼんやりとした状態で見上げれば、そこには自分の役割を果たした人間に見られる達成感のようなものを感じられた。
思わず、腕の中のヤナギを強く抱き締め、信じてもいない神に感謝した。
「イルカ先生!」
ストレッチャーがビニールのカーテンを押しのけて進み出る。その上には当然のようにイルカが横たわっているのが見えた。
途端、カカシの腕の中からヤナギは飛び出し、それに駆け寄った。
無くなった温もりを寂しく思いながらも、カカシもそちらへと足早に近寄ろうとした時、高い子供の声が廊下に響いた。
「…ぁさん!」
一瞬、ヤナギの叫ぶような声に、カカシは耳を疑う。
聞き間違いかと思いならがもイルカへと近付けば、身長が足りずにストレッチャーの上を覗けない子供の姿。
カカシは聞こえた筈の単語に首を捻るのを後回しにし、ストレッチャーによじ登ろうとするヤナギを掬うように捕まえ、イルカの顔が見える高さに持ち上げてやる。
カカシに支えられながらも、必至で手を伸ばしイルカを求めるヤナギに、その場に居た人間は胸が詰まった。
小さな声で、繰り返しイルカを呼ぶヤナギに、青を通り越して白い顔のイルカが視線を向け、笑った。
「…父さんって呼べって言ったろ…?」
酸素マスク越しの不明瞭な声。
力無く持ち上げられたイルカの手がヤナギの頭を撫でるのを、カカシは子供を支えたままぼんやりと見つめるしか無かった。
腕から伸びたチューブからは透明な液体が流れ、ゆっくりと落ちる水滴がイルカの生命を繋いでいる。
「……母さんは、母さんだもん…」
どうやら聞き間違いでは無かったらしいと、カカシは疑問に満ちた視線をイルカに向けるが、今のイルカに説明を求めるのは酷だろう。
横に控えている看護士達がストレッチャーから離れろという仕草を見せるが、イルカの手はヤナギの頭に置かれたまままだ離れない。
ヤナギの意外過ぎる発言に呆気に取られながらも、カカシは子供を抱えたまま一歩下がろうとするが、不意に滑るように触れて来たイルカの手によって阻まれる。
「スイマセン、ドジ踏んだみたいで…暫くこの子の事お願いできますか…?」
黒い目がじっとカカシを見上げる。
ゆっくりと紡がれたイルカの言葉を噛み締め、カカシはしっかりと頷いた。
頷くしか出来なかった。
そんなカカシの仕草を認め、イルカは白く曇った酸素マスクの向こうでふわりと笑い、ヤナギへと視線を移す。
「お願いします…」
再度、重ねられた言葉に、カカシはヤナギを腕に抱き、イルカを見つめて頷いた。
言いたい事を言い終えたせいか、ゆるい仕草でイルカの瞼が閉じられ、ストレッチャーが走り出す。
暗い廊下に佇むのは、カカシひとり。
否、カカシと、ヤナギだけだった。
イルカを見付けた時、心臓が凍るかと思った。
しっかりと厚着をさせたヤナギを背負い、背中の子供が指さす方向へと走れば、易々と忍犬に追い付いてしまった。
里の大門を潜る為、門番に理由を話して条件付きで通して貰う。
忍犬が先行して走る暗闇、背中にしがみつくヤナギが小さな声で方向の指示をカカシに囁いた。
そして辿り着いた薄く雪が積もった、真っ白な沢。
小さな指が指さす場所に目をやれば、闇に慣れたカカシの目に映ったのは半身を水に浸けた黒い塊。
その塊が引っ掛かる雪の淵が、夜目にも黒く染まっているのがはっきりと見えた。
「イルカ先生ッ!?」
知らず足が駆ける速くなる。
首にしがみついたヤナギの腕にも力が隠った。振り落とされないように。
鼓動が耳鳴りのように煩く響いて、緊張が体中に漲った。
「イルカせんせ…?」
呼びかけても動かない。
ふわりふわりと舞い落ちる粉雪が黒い忍服に降り積もる様を、どこか現実と遠い所の光景のように、呆然と見つめてしまった。
俯せで横たわるイルカの周りには、赤黒く染まった雪。
吸い込んだ息が吐けず、呼吸を止めたまま見入るカカシに業を煮やしたのか、背中からヤナギが飛び降り、イルカへと駆け出すのを固まった体のまま眺めた。
人の生き死になんて、嫌という程見てきた。
なのにこの様は何だと、カカシは動かない両足を叱咤してヤナギへと続く。
サクリサクリと踏みつける度に鳴る雪の音が、闇に沈んだ空間に響く唯一の音のように思えて、酷く心許ない気分になる。
そこにイルカの呼吸すら無いように思えて。
それでもイルカに縋るヤナギの背後から、状況を検分する目で見てしまうのは忍としての性なのか、大きく逸る心臓とは逆に冴えていく頭に自嘲した。
ヤナギの後ろに屈み込み、倒れるイルカの口元に手をやり、カカシは何とか息を吐いた。
「……生きてる」
思わず座り込みたくなる程の安堵がカカシの全身を包むが、思考はそれを許さない。
手早く怪我の部位や深さを計り、周りの状況も瞬時に記憶する。
そして待機させておいた忍犬を呼び寄せ、その背にイルカを固定した。
「里に」
一言命じて、カカシはヤナギを抱き上げる。
式を飛ばして、火影と医療班に連絡すれば、もう自分の出来る事は終わってしまった。
恐らく忍犬が大門に着く頃には、受け入れ体制は整っているだろう。
「さ、帰ろう…」
「だいじょぶ? ね、治る?」
「治るよ、大丈夫」
「ホント?」
「うん、本当」
拙い言葉でイルカの安否を伺うヤナギを、カカシは強く抱き締め、諭すように「大丈夫」と繰り返す。
それはヤナギに向けた言葉でもあり、自分にも向けた言葉。
イルカに積もっていた雪の量を考えるに、この場に倒れ込んでからさして時間は経っていない筈。そして流れた血の量は多いかもしれないが、寒さのせいで血管が収縮している事から、生死は五分を上回ると、冷静な思考でカカシは思う。
だが、体は酷く震えたままだった。
怖い。
このままイルカが逝ってしまうと、考えたくも無いのに考えてしまう。
恐怖が胸の辺りから全身へと毒のように広がるが、カカシはそれを抱き込んだヤナギの体温で打ち消そうとする。
繰り返し、大丈夫と、自分にも子供にも言い聞かせて。
そんなカカシの様子に何を思ったのか、ヤナギがカカシの首に縋り付き、肩口に頬を擦り寄せる。
消え去らない不安。
子供の体温が、ほんの少しだけそれを緩める。
そして震えに萎える足に力を込め、カカシは里へと駆け出そうと一歩を踏み出すが、引っかかりを覚えて立ち止まり、ヤナギを抱いたままイルカの倒れていた場所を振り返った。
ヤナギの顔を自分の胸に押し受け、なるべく見せないように配慮して。
血に染まった雪。イルカが倒れた窪み。
可笑しいと、カカシの本能が告げる。
何が可笑しいのかは、まだ判らないが。
ヤナギを腕に抱いて、イルカ宅へと帰途を辿る。
専門家に大丈夫だと言われても、瞼の裏にちらつくのは血の気の失せたイルカの顔で、知らず足取りが重くなった。
本格的に降り出した雪がから守るように深くヤナギを抱き込んで、カカシは白い路面に足跡を残しながら歩を進める。
自分もヤナギも、イルカの血で染まってしまった。
特にヤナギは全身で倒れたイルカに抱き付いたせいか、顔から足まで褐色が尾を引く有様。
風は無いがゆるく降る雪のお陰で、お互い体も冷え切っているのも考慮し、カカシは帰宅したらまず風呂だと働かない頭で考える。
「帰ったらお風呂焚いて、入ろうね」
「一緒?」
「うん、一緒にね」
この子は一緒という言葉に拘ると、不意に思った。
イルカを探しに行く時にも耳にしたその言葉、ともすれば置いて行かれるのを恐れているようにも感じて、イルカの不在にひとり待つヤナギの心情を感じ取る。
数ヶ月共に暮らして来たが、ヤナギと風呂に入るのは実は初めてだった。
子供の扱いに慣れていないせいか、無意識に避けていたのかもしれないと、カカシは内心嗤う。
大概、イルカと共に入り、この3日は気が付けばヤナギ一人で済ませていたのだ。
代わりになんか慣れないのは十分承知している。
だが、こんな日くらいは子供に不安を与えたくないと思った。
否、自分が甘えているのかもしれない。
ヤナギという存在に。
玄関先でお互いの雪を払い、風呂のスイッチを入れる。
湯気が溢れる光景を目にすると、途端に自分の体が凍えていた事を思い出すのが不思議だった。
心臓が止まりそうな光景に、駆け抜けた緊張がどこかに残っていたのか、湯船に溜まる湯の様子を眺めれば、体からストンと強ばりが抜けた感覚があった。
湯気の隠る中、ヤナギが服を脱ぎ浴室の椅子にちょこんと座る様に和みつつ、小さく白い背中を眺めながら湯桶で頭っから湯をかけて揶揄う。
ヘニャリとした猫っ毛を掻き混ぜようと、目の前の黒髪に指を突っ込んで初めて気付いた。
乾いている時は気付かなかった感触。
記憶に有る特殊な感触に疑問を持ち、カカシは何度か髪をまさぐり、指先で掻き分けるようにして観察すれば、あきらかな痕跡を見付けてしまう。
それは染髪特有の、軋みの感触。
乾燥した髪では殆ど感じられない、濡れて初めて判る特殊な染め粉のものだった。
「何で、こんな子供に…?」
ヤナギが自分でした訳では無い事は、判りきっている。
ならば、イルカが施しているのだろう。
これだけ共に暮らしていたカカシに、気付かせないくらいに頻繁に。
そこに何かがあるから隠す。
イルカとヤナギだけの隠し事。
そう思った瞬間、カカシは立ち上がり隠し事を暴く事を決意する。
「ヤナギ、そのまんまで待ってて。すぐ戻るから」
肩越し自分を振り返る子供に言い置いて、カカシはイルカの道具棚を漁り、目当てのものを見付け、それをひっ掴んで慌ただしく風呂場へと戻る。
ヤナギはカカシの言いつけ通りに椅子に座り、背を向けていた。
「頭、洗うね」
手にしたのはシャンプーでは無く、専用の染め粉落とし。
自分達が使う染め粉は、落とす事を前提としたものが多く、水に濡らしても落ちはしないが専用の薬品を使えば、容易に落とせるように開発されている。
使用頻度が高くても、市販の染め粉よりも髪や頭皮へのダメージが格段に少ないそれ。
イルカが市販の染め粉を使っているとは、何故か思わなかった。
そして、カカシの思惑は当たる。
手に広げた薬剤をヤナギの髪へと擦り込ませ、更にシャンプーで薬剤ごと泡立てて流せば、現れたのは見事な銀。
「…え、ちょっと、何で、また…?」
風呂場の頼りない灯りを反射する混じり気の無い銀色に、カカシは呆然と呟く。
遺伝の法則を考えれば、黒髪のイルカの子供がこの色の髪になる確立は極めて低い。
隔世遺伝の可能性も頭に過ぎったが、ならばわざわざ染めはしないだろう。
不意に思い出す。
病院でヤナギがイルカに駆け寄った時の言葉を。
そしてイルカの、それに対する返答を。
「母さん? イルカ先生が…お母さん?」
何度も体を重ねた。
貪り尽くす程にイルカに触れ、手の中や口、時には自分達の腹の間で性器が爆発するのを幾度も感じた。
カカシを受け入れる部分も、本来ならば排泄に使われる場所であり、性器では有り得ない。
イルカは紛れもない男であると、カカシは知ってしまっている。
なのに、ヤナギは彼を母と呼ぶ。
その奇妙な部分に、彼らの隠し事の何かがあると、カカシは思い至った。
「…っくしっ」
どれくらいの時間を呆然と過ごしたのか、背中を向けて座っていたヤナギが可愛らしいクシャミをし、肩を寒さに震わせる。
カカシはヤナギ本来の銀髪をどこか呆然と眺めながら、湯桶い湯を掬い子供にかける。
降りかかった疑問が多すぎて、どうにも頭が飽和状態に陥りつつあるが、取りあえず温まるのが先決だろうと、湯船に入る前にヤナギの体をざっと洗おうと、泡立てたタオルで小さな背中を真っ白な泡で覆う。
「はい、こっち向いて〜」
背中を流して声をかけ、椅子の上をクルンと回転した子供の腕を取った瞬間、また目を見開く事実が待っていた。
床に跪いたままの状態で、カカシは固まった。
カカシに言われるまま大人しく洗われていたヤナギの、きょとんとした視線がカカシに注がれるが、今確認した事実に驚いて、カカシは凝視したそこから目が反らせない。
黒に染められた銀髪だけでも驚いたのに、どうして驚愕は立て続けにやって来るのか。
風呂に入った時から背中しか見ていなかったから、今更知った。
カカシが何気なく視線を落とした先、ついてると思い込んでいたものが無かった。
「ヤナギ…お前、女の子だったのね……」
訥々とした話し方、そして男の子寄りの服装のせいで、見事に先入観に嵌った自分。
忍は裏の裏を読め、それは自分が言った言葉じゃなかったかと、カカシは落ち込む。
狭い風呂場の中、力無いカカシの呟きが小さく、しかし虚しく響いたのだった。
風邪ひくぞ〜。
はい。ヤナギ、女の子です(笑)
ここまで読んで下さった方々、どっちだと思われてましたか?
ずっと、子供とか、ヤナギと名前で書いて来たんです。
男を思わせる3人称を極力使わず、頑張りました!<ぇ?
「母さん」発言よりも、こっちの方が書きたかったんですよ。
淡い銀髪に青灰色の目。凄い美少女だと思いませんか?
ちょっとポヤンとしてるでしょうが。