夜凪/8




女の子だと判ってしまうと、何故か触れる事を躊躇ってしまう。
今まで無造作に抱き上げて抱き締めていたのに、どうしてか腕を伸ばす事すら戸惑ってしまうのだ。
それでもヤナギ本人がカカシのズボンを引っ張り、抱っこを促すのを見て、カカシは指先まで緊張を漲らせ、ゆっくりと小さな体を抱き上げた。
風呂上がりのポカポカとした体温が、寒い室内で冷めかけた体にじんわりと温かい。
生来のものであろう銀色の髪が、蛍光灯の光を鈍く弾く様に目が釘付けになった。
乾くとパサパサとした印象のある、細い質の猫毛。
子供特有の頼りない指触りに、女の子だと固定観念を覚えてしまえば、ヤナギの姿が酷く頼りないものとして映ってしまう。
そんなカカシの葛藤を余所に、ヤナギは座ったカカシの腿に乗り上げ、ぺとりと胸に頬を寄せる。
湯上がりの上気した頬はまさに薔薇色に染まり、眠気を含んだ大きな目は潤みを持った青灰色。
可愛いとは思っていたが、これは将来が楽しみな容姿だと、カカシは改めてヤナギの顔を眺めて嘆息した。
自分に縋り付き張り付くように密着する子供に、性別ゆえの戸惑いを覚えつつも、カカシは床に置きっぱなしのイルカの半纏を寒そうな掛けてやる。
布越し腕で抱き寄せて更に密着させれば、胸元から安堵めいた吐息が聞こえた。

「ヤナギ…」
「ん…?」

声を掛ければ胸元から僅かに顔を起こし、視線が上がる。
お互い夜着という薄着ではあったが、くっついていれば温かく、気持ち良い。
このまま布団に転がれば、疲れと温かさで即座に眠れそうな気がしたが、カカシはその誘惑を押さえつけ、そっとヤナギに尋ねる。
染められた銀髪と、今更判明したヤナギの性別でパニックを起こしていた思考が沈静化し、やっと機能しはじめたのだ。

「なぁ…イルカ先生が母さんってどういう事…?」

子供に尋ねる自分は卑怯だろうか。
今までヤナギは一言だって、イルカをそう呼ばなかったのだから。
恐らく、イルカがそう呼ぶなと言い含めていたのだろう。自分が転がり込んで来た時から。
他人が隠そうとしている事を暴く。
酷く苦い気持ちが沸き上がるが、イルカを構成する背景ならば知りたいと、欲求の方が勝ってしまった。
所詮自分も人の子だと、カカシは自嘲するしか無かった。

「…母さんは、母さん」

首を傾げてヤナギが答える。
こんな幼子に何を期待しているのかと、自分で判っていながらもカカシは次の問いかけを頭の中で解きほぐす。
難しいかもしれない。
親=イルカという図式で成り立っているヤナギには。

「じゃあ…、ヤナギにとってお母さんってのはどんな人」

自分を見返す大きな目。
それをじっと見つめ、カカシは少し考えているらしいヤナギの答えを辛抱強く待つ。
小さく唸り、俯き、言葉を探す子供の様子に罪悪感が湧く。
と、ヤナギが俯いた顔を上げ、笑った。
子供の中で言葉が見つかったらしいその表情に、カカシは知らず固唾を飲む。

「産んでくれた人」

弾むような口調で告げられた内容に、思わず天井を仰いでしまう。
何となく判ってはいたのだが、こうして確認すると衝撃は予想よりも遙かに大きくカカシの思考を揺さぶる。
これで、イルカの伴侶が女である線が消えたのだ。
どういう経緯で男であるイルカが子供を孕み、そして産んだのかは判らない。だが、イルカが産んだという事実がある以上、種が── ヤナギの父親の存在が浮上する。
妻の存在以上に考えたく無かったかもしれないと、カカシは暴いた秘密を苦く飲み込む。
過去、イルカに触れた男が居る。
孕ませ、産ませた男が。

「ヤナギは…父親── お父さんを知ってるの?」

尋ねる事に、躊躇いが無かったとは言えない。
だけど知っておきたい。
今現在は不在なその存在を。
しかし、尋ねられたヤナギは小さく左右に首を振り、カカシの覚悟は肩すかしを食らう。

「知らない…でも…」
「でも?」
「イルカ母さんが、凄く凄く好きな人なんだって…」
「そっか…」

イルカに愛された人間。
子供に惚気る位に愛された存在に、カカシは気落ちする。
ヤナギの言葉ではその人物が生きているのか、もう居ない人間なのかは判らない。
ただ、何となく悔しいと思った。
男の体で孕み、産んで育てる程に、その男の事が好きだったのだと知ってしまって。
負けたような気がするのかもしれない。
知り合ってたった数ヶ月の自分。
体をいくら重ねても、知りようも無かったイルカの過去。
知らぬ男との間に愛情。その結果がヤナギとして目の前に突き付けられたのだから。
イルカの、相手に対する情の深さを知らされた気分だった。
ヤナギの背を小さく叩きながらも、カカシは呆然としてしまう。
そんなカカシの夜着の襟を引っ張り、ヤナギが内緒話をするように声を潜め、口元を両手で囲ってカカシを促す。

「あのね…」
「ん…?」

ヤナギに乞われるままカカシは背を屈めて、ヤナギの口元へと耳を寄せる。
僅かに身を起こした子供は、内緒と小さく前置きをしてカカシに囁いた。

「母さんのおめめ、黒いでしょ?」
「うん、黒いね」
「夜の、凪いだ海みたいって言ったんだって…それが凄く嬉しかったって母さんが言ってたの」
「夜の、凪いだ海…」

こっそりとヤナギが耳元で話す内容に、相槌を打ちながらカカシは自分の中に引っ掛かる単語を見付ける。
黒い目。
記憶にフラッシュバックするのは、イルカの顔。
そして、過去、人生の伴侶にと唯一望んだ女。
いつかの夜、自分は確かにイルカに言った。
涙を浮かべた彼の目が、頼りない光を反射する様が漁り火のようで──夜の凪ぎの海みたいだと。
そして、記憶の底に沈めようとした女にも、言ったかもしれない。
もう何年も前の話しだがと記憶を辿り、カカシは呆気に取られる。

── あれは何年前の戦場だった?

5年…6年経ったか。
丁度、ヤナギの年と同じ位の年数。
当時の自分の年齢を考え逆算しても、辻褄があってしまう。
いきなり固まってしまったカカシに気付かず、ヤナギは更にその耳元に小さな囁きを落とす。
それはひどく嬉しそうな響きを持った声だった。

「うん。だからヤナギってつけたって」
「ヤ、ナギ…?」

今の話の流れで何故そうなるのかが判らず、呆然としたままカカシは鸚鵡返しに子供が告げる名前を繰り返す。
名前の由来。
以前イルカに一度だけ聞いた覚えがある。
似てると言われたと。
嬉しくて、忘れられなくて、だから付けたと。
その時のイルカの様子を思い出し、やっとカカシは自分の思い込みによる思い違いに気付いた。
文字を音で捕らえたから間違えた。
そこに含まれた、大きな意味を。

「夜の凪ぎって書いて、夜凪−ヤナギ−なんだって」

そう告げられた瞬間、無性に土下座したい気持ちに襲われた。
ヤナギの名の由来を耳にした時の自分の返答。
イルカの顔が泣きそうに歪んだ意味が、今になってやっと判った。
大切にしていた思い出を、思い出本人により叩き潰されたのだから。
脳裏に浮かぶ、微笑んでいるのに泣いているようなイルカの表情。

「馬鹿か、オレ…」

あの時、恋愛感情は無かったかもしれない。
だけどヤナギの片親を懐かしく語るイルカの姿に、面白く無いものを感じたのは覚えているのだ。

「自分に嫉妬してどうするよ」
「…?」
「あ〜、うん、何でもない…話してくれてありがと」

言って頭を軽く叩けば、嬉しそうに笑う子供の顔。
その顔を見た瞬間、抱き締めたくなった。
だから抱き締める。親が子供を抱き締めるように。
今まで何度もヤナギの存在に感謝した。
イルカを見付けた時、諦めそうになるのを踏みとどまったのは、この子の存在のお陰だし、処置室の前で緊張に叫び出しそうになるのを押し止めたのも、ヤナギの小さな姿の為だ。
そして、今も感謝する。
自分の腕の中に、確かに存在する事に。
生まれて来てくれた事に、言葉にし尽くせない感謝を捧げた。

「…カカシはイルカ母さんが好き?」
「好き。大好き…でも、ヤナギの事も好きだよ」

抱き締めたままそう言えば、照れがあるのかヤナギが胸元に頬摺りする感触。
眼下にふわふわと柔らかな銀の髪、目を覗けば灰色がかった青。
イルカの特徴を一切受け継がない子供の姿は、どう贔屓目に見てもカカシの因子が色濃く出ていた。
先入観の紗幕のせいで全く自覚が無かったが、きっと自分の幼い頃にそっくりなのだろう。
男女の違いで印象の差はあるだろうが。
イルカの居ない心細さも手伝ってか、ヤナギがぽつりぽつりと拙い言葉で、今までイルカと過ごした過去を小さな唇から紡ぐ。
そこには親子で交わされた内緒の約束事や、イルカが漏らしたであろう言葉が散りばめられ、カカシはそれらを根気よく拾って、パズルを組み立てるようにはめ込んでいく。
ヤナギがイルカを母親と認識したのは、最初はご飯を作ってくれる人だからというのがあったらしいが、時折イルカが零す言葉を幼いながらも拾って、イルカが自分を産んだ人間だと理解したらしい。

「お腹から出す時、大変だったんだって」

さほど遠くない過去、道でどこかの兄弟が手を繋いでいるのをじっと見ているヤナギに気付いたイルカが、ゴメンな、と謝ったと。
イルカはヤナギの父親以外と添う気は無く、更にもう孕めない体になっていると、幼いヤナギに真剣に言ったらしい。

「お腹が空っぽになっちゃったから、ダメなんだって」

その言葉にカカシはギョッとする。
恐らくヤナギを産む時に何らかの事があったのだろうと予測できるが、何故こんな子供に事をそのまま話すのだろうかと、不思議に思った。

「女の子だから、母さんと一緒じゃなくて良かったって」

一緒が良いのにと俯くヤナギに、イルカの体の特殊性を悟った。
女ならば孕むのは当たり前の事で、そこに生ずる不都合は男の身で孕んでしまったイルカに比べ、皆無に等しいだろう。
それでも遺伝を恐れてか、きっとイルカはヤナギにそれとなく諭すような事を言っていたのだろう。

「でも…オレもヤナギが女の子で良かったと思うよ」

抱き締めた温もりにカカシは嘆息した。
少し考えれば判る、イルカの体験した恐怖を。
望んで孕んだとして、腹の中に蠢く何かを数ヶ月に渡り宿すのだ。
自分なら発狂するだろう。男の精神は子供を宿すように作られていないのだから。
それでも今ここの存在するヤナギという事例に、カカシはひとつ確信めいたものを感じる。
それは第三者の介入。
孕むまでなら良い。
しかし、内密に産んで育てるとなると、どうしても他者の介入が必須となるだろう。
そして、その人物は簡単に予想が付いてしまう。
幼い時からイルカを知り、今でも孫のように接する老爺。
三代目火影ならば、他者からイルカを隠す等朝飯前に等しいだろう。

「ちくしょう…里長までグルですかい」

カカシがあの女を望んだ時、里中を探した。
報告書や登録書すら埃にまみれて漁ったのだ。
なのに、影も形も見つからなかった。当たり前だ。里長自らが介入して全てをもみ消したのだから。

「やられた…」

今までの自分の努力は何だったのかと、白く燃え尽きたい気分になった。
そんなカカシの姿を、眠そうな目でヤナギが見上げてくる。
時間は深夜をとうに越し、疲れも伴って眠くなるのも当然だろう。
カカシはヤナギを抱いたまま立ち上がり、共に布団にくるまり横になる。
間を置かずに胸元から上がる寝息に、知らず気が抜けた。
腕の中の温もりを昨日までとは違った意味合いを持って抱き締め、その温かさに浸りながら、カカシは今日の予定を頭の中で立て始める。
ヤナギの髪をちらりと眺め、勿体無いが染め直すのが良いだろうと結論付け、この子の髪を染めて七班に預け、自分は火影を問いつめに執務室へと殴り込みをかけようと決意した。

「6年も騙しやがって」

積年の恨みとは言わないが、あの時の自分の落ち込みをどうしてくれる。
何よりも、ヤナギの遺伝子の片割れである自分を差し置き、三代目がイルカの事を知っているというのが、許せなかったのだ。

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文章目次

短いですが、一区切り。
次回三代目登場で、体質説明です。
ある意味ファンタジーですから、痛いツッコミは
無しの方向でお願いしますね〜。