朝から風呂に入ると言うのは目に毒だった。
幼いとは言え、曲がりなりにも女の子。
カカシはなるべく下を見ないように気を遣いながら、ヤナギと共に浴室に入る。
朝方の寒さも伴い毛穴が縮むような気温に、思わず浴槽に湯を張り二人で浸かる。
部下達に預ける事を考えて、ヤナギの髪を黒に染め直さなければならないのだが、どうにもこの銀髪が名残惜しいと思ってしまう。
銀髪なんて、毎日鏡で見慣れているのに。
黒く染まる淡い髪を眺め、今は仕方無いと溜息をひとつで諦めるのだった。
部下に申し訳ないと思いながらも今日は鍛錬日に宛て、イルカが入院したとだけ伝えてヤナギを預ける。
日中勤務していたイルカがどこにヤナギを預けて働いていたのか判らず、その辺りにも三代目が絡んでいるのだろうと思い当たり、胸に苛立ちが込み上げた。
それでもカカシと出会って── 否、再会してからは、極力ヤナギと共にイルカは過ごしていたように思う。
思い出す場面場面に、二人がセットで現れるのだから。
それはイルカの中で、何かが揺れたのだろうか。
あの人は、隠そうと思った秘め事は墓の中まで持って行くタイプに思える。
なのにカカシとヤナギを引き合わせた。
ふたりで築いた空間に、カカシを招き入れ、許容した。
「…期待しても良いんだよね、イルカ先生」
多分問いつめない方が、イルカの為なのだろう。
だが、全てを判明させ把握しなければ、カカシだって動きようが無いのだ。
確たる地位が欲しいのだと、閃くように自分の欲求を理解する。
イルカの伴侶としての、ヤナギの父親としての、確たる地位が欲しいのだ自分は。
「責任の取りよう無いじゃないの、今のままだとさ」
イルカは自分に何も求めず、ただ腕を差し伸ばしてくれる。
ただカカシの求めるものを与え、許容するだけなのだ。
それでは自分が寂しいとカカシは思う。
自分とてイルカに与えたいのだ。
それは愛とか情とかと言うものも含めて、今の自分を作った全てをイルカに捧げたいと。
女の姿をしたイルカが、自分の前から消え去った時の衝動は、今でも忘れない。
だが、そこに怒りを感じるかと言えば、そうでは無いのだ。
当時は憤り、若さも手伝って酷く荒れた。
しかし今となっては、黙って去られた事に寂しさを感じるだけだった。
「逃げた事は許せない…でも」
男の姿のイルカに出会い、知らぬ間に惹かれた段階で、許してしまったのだ、きっと。
今、過去に自分の元から去ったイルカを詰りたいとは思わない。
責めたり詰ったりするよりも、好きだと囁きたい。
人が空気を必要とするように、自分にはイルカが必要だった。
どうしてここまで惚れ込んでしまったのか自分でも判らないが、女の姿だったイルカも、今のイルカも、腕に抱き込み肌を重ねた時、自分の中の欠けていた部分が埋まったような感触があったのだ。
触れただけで満たされる存在。
それは希有で尊いものだと、カカシはしみじみと思った。
「さて、吐いて貰いましょうか、三代目」
そんな不遜な台詞と共に、カカシは執務室へと押し掛けた。
入室の為の面倒な手続きを踏みながらも、この言動。
自分でも可笑しいとは思うのだが、苛立ちだ先走り三代目の顔を見た途端、本音がついポロリと口をついて出てしまった。
「何じゃ、藪から棒に」
「…イルカ先生とヤナギの事で、と言えば判りますかね?」
そう言った途端、老爺の顔があからさまに顰められ、煙管を銜えた口から盛大に煙が吹き出される。
やっぱりかとカカシは鼻息荒く、足早に執務机にへと近寄り、両手をそこへと置いた。
そして威圧するように背を屈めて、真っ正面から睨め付ける。
動作の途中で机に乗せられていた書類が、何枚か床に落ちたが気にはせず、視線を逸らさずに煙管を銜える老爺を見る。
苦虫を噛み潰したような表情で視線を逸らそうとする姿に、酷く苛立ちを覚える。
カカシは鼻でその態度を一蹴し、更に詰め寄るように机へと身を乗り出せば、しぶしぶといった体で里長は煙管を唇から離した。
皺の刻まれた口元が咳払いをひとつして、重そうに口が開かれる。
そのタイミングを狙って、カカシは態とそれを止めた。
「と、その前にひとつ」
手で制され、里長は忌々し気な顔でカカシを見返す。
虚を突かれ、緊張と共に吐息を吐く里長は、カカシの意図が判らずに眉間に皺を刻んだ。
「…何だ?」
煙管の吸い口を銜え直し、胡乱な視線を向ける。
だが、カカシの口から出た言葉に、眉を跳ね上げる結果があった。
「あの日、イルカ先生に任務を押し付けたヤツ、洗ってください」
紡がれたのはイルカの負傷の背景。
胡乱な視線を改め、里長はカカシを見つめ促す。
追跡を得意とするカカシの感覚に、何かが触れたのだろうと予測して。
「…不審な点でも?」
「イルカ先生を見付けたのはオレとあの子です。発見した時の状況がどうにも引っ掛かってね」
「ふん、お前は鼻が利くからの」
たまに鼻が利きすぎるがと言いながらも、皺が浮かぶ指先は書類を漁る。
イルカの負傷によって、いまだ報告書は提出されてはいないが、日付毎に誰が何の任務に出たかの写しは手元に残っているのだ。
中忍以上の者ならば、火影の手元に日毎名簿が上がってくる。
そうで無ければ、緊急の任務など振り分け出来ないのだから。
「あまりにも無防備に攻撃されているんですよ、背後から。しかも現状には争ったような形跡は見られなかった。明らかに不意打ちです…しかも…多分ですが、顔見知りの」
確信めいたカカシの言葉に頷き、書類を探った。
確かに、出てきた書類には拝命者の名前が書き換えられ、代行としてイルカの名前が書き記されている。
「なるほどの」
「そして、争った形跡も無い上に、綺麗過ぎるんですよ…多分足跡を隠すのに、沢を下るか上がるかしたんでしょけどね」
「判った。調べがつき次第、お前にも報告しよう」
ここから先は内部調査の領域になる。
背景が明らかになるまでは動くなと、暗に言い含めるその言葉にカカシは頷き、再度執務机に両手を乗せ、里長に詰め寄る体勢を取る。
「で、本題です」
言い逃れをさせない、殺気にも似た威圧を里長に向ける。
不遜だと判ってはいるが、カカシには引く気は全く無かった。
何よりも、イルカに向かわなかった怒りの矛先が、方向をこちらと定めてしまたのだから。
そんなカカシの態度に、里長は呆れ混じりの溜息を吐く。
「ドコで知りよった…まったく」
「病院で、ちょっと…ね」
イルカの口から直接聞いた訳では無い事を示す言葉。
その様子を嗅ぎ取り、里長は逡巡の間を持つ。
自分から話して良いものか、迷った。
「どこまで知った?」
「イルカ先生がヤナギを産んだ事と…その種の製造元がオレって事までですかね」
「…全部じゃろう、それは」
鼻が利くにも程があると、嘆息する。
ならば過去のイルカとの場面も知っているだろうと見返せば、カカシは軽く頭を振り言った。
「いえ、オレは結果を知りたいのでは無く、全貌を知りたいんですよ、三代目」
カカシの真摯で真っ直ぐな視線が、逃げ場を絶とうと立ちはだかる。
その様子に里長は天を仰ぎ、病院のベッドに居るであろうイルカに、心の中で謝った。
スマン、逃げられん…と。
「欲をかくと身を滅ぼすぞ?」
「本望ですよ、だってオレの子でしょ、あの子」
ゆるく目を眇めるカカシの表情に浮かぶのは、声の冷たさとは裏腹の慈愛めいた感情。
カカシがイルカとその子供と近しくしていたのは、周りから耳にしていたし、自分の目でも見た。
他人の子供ならば可愛がれるというのは、確かにあっただろう。
だが、自分の子供という事実を知って尚、ヤナギの存在を疎ましく思っていないカカシの目に、里長は腹を括った。
カカシがイルカに執着を見せているのは知っていた。
ならばその覚悟がどこまであるのか、見てみたいとも思ったのだ。
「長くなるぞ」
「手短にと誰が言いましたか?」
里長の言葉に、カカシは威圧の気を散らし、姿勢を正す。
語る内容を受け止めようと、耳に神経を集中させて。
「あれは「うみの」の家に稀に現れる特殊なものでな…」
それは突然変異とすら言ってしまえる程に、稀な遺伝なのだと三代目は語り始める。
体の中、内臓器官を調べて初めて判明する特殊すぎる体の造り。
外見上は明らかに男子。
なのに子宮と卵巣が存在するのだと言うのだ。
「外陰部は男のそれだからの、具有やら二形(ふたなり)とは違うものじゃ。あれは突発性の突然変異で、特に外見に二つの性を併せ持つ者を示すものだからな」
確かにと、カカシはイルカの裸体を思い出す。
胸も平坦で、性器は成人男性に似つかわしいもので、更に射精する事すら知っていたのだから。
語られた内容にも、男としての機能には問題は無いとあった。
ただ小さく退化したような子宮と、排卵しない卵巣がひとつあるだけで、男としては何の問題も無いと。
「じゃあ…イルカ先生の性は男、なんですか?」
「そうだ。あのトラブルが無い限り、男として一生を送る予定じゃったのに…」
「…あの時のイルカ先生、女のナリしてましたよ…?」
「任務上必要だったから変化してただけじゃ、まったく…」
何らかの術を被っている気配はしたが、あの時は変化だとは気付かなかった。
それでも今のイルカを見る限り、カカシはイルカの性を元から男だと何故だか疑わなかった自分に、首を捻る。
過去の女と重ねても尚、そしてヤナギを産んだと知っても尚、イルカを男として見ている自分が不思議だった。
多分と、思い当たる事はある。
今のイルカに惚れた以上、元がどうであれ今のイルカを男として見ているからだと。
「本来、変化で外陰部を作った所で、排卵はしておらんのだから…」
「妊娠なんて出来ませんよねぇ」
「本来ならな」
「…でもイルカ先生、孕んで、しかも産んでますよね…オレの子供」
再び首を捻れば、里長は煙管の吸い口を歯で軋ませ顔を顰める。
それがトラブルなのだと。
過去に妊娠の事例が無かった訳では無かったのだと、苦い顔でカカシに告げる。
そしてそれがどれほどに重要な体質であるかを。
里の創設より存在する「うみの」の家。
その歴史の中でほんの数例の例外があったと。
まず外見から見分ける事の出来ない体質故に、殆どの者── 男のみに当てはまる事だが、当然妊娠には縁がなく一生を終える。
その事例が出てしまった背景を重々しく語りながら、里長が行き着いたのは、特殊な状況下ならば排卵してしまうという事。
「ひとつは、目の前で近しい者、特に配偶者や子供が殺された時」
その言葉ひとつで、当時の凄惨さが伝わるのが辛い。
カカシは恐らく、間違えずその言葉に含まれた意味合いを受け取っただろう。
目の前で近しい者を殺され、更に女として慰み者にされる戦場の凄惨な光景。
それは稀でありながらも、事例として残るのだから、過去に実際にあった事なのだと。
「そして、もうひとつ…」
吐かれた紫煙が室内を漂う様子が、過去イルカが女の姿で訪れた時のようだと里長は過去を思い出す。
悪戯を思いついた子供のような表情で告げられた内容に、本気で腰を抜かすかと思った事が懐かしいと。
「種を身の内に入れる時、強く…強く望めば、排卵が起こる」
その種の子供を孕みたいと強く願えば、体が望みを叶えると。
しかし、その意思の強さは生半可なものでは無く、相当の覚悟をして初めて排卵が成されるというのだ。
それは身の内に種を取り込むに等しい行為で、種は望まれて孕まれた場合、不思議な芽吹き方をするらしい。
「…種の元を、写し取るのじゃよ…そっくり同じ外見と能力を持った者が生まれる」
「…え、でもヤナギは…」
「オナゴのナリで生まれたのは、イルカの気合いかもしれんな…」
数例あった事例の内、種と違う性を受けたのはヤナギひとり。
男が妊娠するだけでも有り得無い事になっているのだ、データすら取れないのが現状だと、里長は言う。
元々子供は女として作られ、男に変化するものだと言われている。
だからその辺りで、何かがあったのかも知れないが、それはあくまでもただの憶測に過ぎなかった。
「あの子を産む時、それはもう大変じゃった」
男として生まれ育ち、それでも望んで孕んだ以上は必ず産むのだとイルカは宣言したらしく、里長に内密に助力を頼んだらしい。
それでも男の精神構造上、妊娠に神経が耐えうる訳では無く、妊娠期間の殆どを自我を抑圧した半覚醒の状態で過ごしたと告げられ、カカシはイルカのあまりにも強い精神力に感嘆した。
そして産み月を待たず、退化しかけた子宮は耐えられなくなり、やむなく切開して子宮ごと取り出したのだと。
ともすれば、親子共に死ぬかもしれない場面、イルカは自分よりも子供を優先しろと、朦朧とした意識で叫んだのだ。
自我すらあやふやな状態で。
あの時の事を思い出せば、里長の脳裏に浮かぶのは血塗れの腹から取り出された、丸く膨れた子宮と、イルカの絶叫。
半覚醒の上、麻酔がかかっているにも拘わらず、本能で叫んだあの声が、付き添った里長の耳に今でも鮮明に残っている。
子宮ごと取り払った状態で、卵巣は無用となり共に摘出された。
だから、イルカに二度目は無い。
男として子供をもうける意外、孕む事は無いのだから。
「そこまでして…」
「そこまでしてでも産みたいと言った、イルカは── そしてお前には告げるなとも」
今回、イルカが怪我を負わなければ、事実は確実に隠蔽されたのだろう。
里長によって放された内容から、イルカの頑ななまでの意志の強さが感じられ、カカシは奥歯を噛み締めた。
「何故です!?」
「…いずれ男に戻る体だからだそうじゃ…お前があの時求めたのは、女のナリのイルカじゃろう?」
「それでも…」
「嫌われる事を恐れていたのかもしれんな、まるで種を目当てにした女の行為じゃ」
「う」
「ある筈の無い排卵を誘発する程に、好いた人間に嫌われる恐怖、お前に理解できるか…?」
「…」
「孕んだだけなら流す事も出来た。しかし産み、あまつさえ今まで、そしてこれからも育て続ける。イルカは強情だからの、以来誰とも付き合わなんだ…儂が進めても無駄じゃったのに、再び同じ相手とは…」
産み月満たずで生まれたヤナギ。
それでも生まれて来てくれた事に、イルカは感謝したのだろう。
父親と母親の役割を一人でこなし、一人で二人分の愛情をヤナギに注いで。
羨ましいとカカシは思う。
確かに女だと思っていた存在が、出産と共に男になれば、自分はどんな態度を取ったか判らない。
それでも今となっては、現在のイルカが居ればそれで良いと思ってしまう自分。
もう、男でも女でも構わない。
うみのイルカ、その人であれば。
「種の製造元としては、大いに責任を取りたいトコなんですけどね…」
溜息混じりで呟いた言葉に、里長は胡乱な眼差しを向け、盛大に煙を噴かした。
どうにも事ある毎にイルカを娘扱いすると思えば、こんな背景があったのかと、カカシは今更ながらに理解した。
表だって邪魔をされた事は無いが、イルカに近寄る度にまるで敵視するような視線が突き刺さっていたのだから。
この里長にとって自分は、孫息子及び孫娘に等しい存在を傷物にした、ロクデナシに映っていたのだろう。
「ちょっと、何ですか三代目。その疑わしい眼差しは?」
「いや、別に」
「…人を蚊帳の外に押し出しておいて、ロクデナシを見るような目、止めて貰えませんか?」
「お前の戦歴は任務以外でも聞き及んでいるがの?」
「イルカ先生以外に種付けした記憶ありませんよ!」
正直、いくら長期に渡る任務だからといって、伽を頼んだ事は数える程しか無い上、処理の行為で胎に射精する等、無かったに等しい。
20を幾つも越えた男が身綺麗である訳も無く、今まで付き合った女が無かったとは言わない。
だが、伴侶と望んだのは彼女だけ。
凪いだ夜の海を目に宿す、女の姿をしたイルカだけだったのだから。
「とにかく! ヤナギはオレの子。それで良いですね!」
「…イルカが認めるなら、儂には何も言う権利などないわい」
紫煙に煙る部屋の中、まるで婿と舅のように二人は対峙する。
しかし里長は判っているのだ。
今でもイルカが、カカシを好きでいる事を。
過去の記憶を宝物のように抱き締めて、ヤナギを支えに生きていこうとしていた事を。
強情すぎる子供は、己を曲げず今日まで来た。
奇縁としか言いようのない状態で、カカシ本人に事が知れてしまったが、これはこれで収まる所に収まったと言えるのでは無いだろうか。
カカシがイルカを求める。
そしてヤナギをも。
ならば後は当事者の問題だろうと結論付け、里長は先程カカシによって投げかけられた新たな問題── イルカの負傷の原因を探るべく、手元の資料を漁り出す。
いかなる理由があっても、同里の人間を傷つけた。
それは許せない事なのだから。
怒濤の体質説明編でした〜。
おかしげな部分あってもスルーして下さい。<をい
一応ある程度は調べて書いたんですけど、いかんせん、中途半端な知識ですから。
目の前で子供を殺されると排卵するってのは、猫の排卵の特性から拝借。
それで雄猫が子猫を食い殺すって法則があるらしいです。
(猫の排卵、本来は突っ込まれて棘の刺激で排卵誘発ってのが一般的)